2000年4月19日 デビュー戦(1)

  ボディビルは、その名の通り、トレーニングを始めて肉体に望む方向での変化をもたらすことができるようになれば達成される。その時、その人は既にボディビルダーである。だから一度もコンテストに出場しないボディビルダーは存在する、いや、そういうボディビルダーの方が多いのである。
  私も初めはコンテストに出るなどということは考えていなかった。ただ「スポーツ」がしたかったのである。私にもできるスポーツとしてボディビルを選んだのである。実際、会員になった当初ジムのコーチやトレーニーたちは素晴らしい肉体をしており、私がそのレベルに到達するのに何年かかるか見当もつかなかった。特に、当時私が在籍したジムには六本木昇氏(ミスター日本7位)がトレーニングに来ていらして、氏のトレーニングや身体を見るにつけコンテストと言うものは自分とは別の世界の出来事であるのだと確信したものである。
  トレーニングを開始して1年経ち、私はミスター秋田コンテストを観戦した。別に進行の手伝いなどをしたわけではない。それでも言ってみれば事実上主催者であるジムの会員だったので、舞台裏から見たりもしてコンテストのおおよその仕組みと言うか、進行具合を知ることができた。ちなみにこの頃は私のいたジムのほかに3つのジムと数人の個人の方が参加し、15〜16名程度の参加、ミスの部は2〜3人でエキシビジョン扱いだったと思う。もちろん、ジュニアだのシニアだのは無いし、当然オーバー・オールである。
  ジュニア、あるいは新人の部が無い代わりに「最年少者賞」という賞があった。良く考えてみるとおかしな賞だが、とにかくそういう賞があるのだから該当者が欲しい。そんなわけで、その翌年、トレーニング開始から1年半を過ぎる頃、会長からコンテストに出ないかと言われるようになった。しばらく考えて、高校も3年だし出てみる気になった。それまでスポーツに縁のなかった私は「試合」というものの経験がなく、当然にして賞をもらったこともない。(いや、実は中学校の体育祭の150m競争で3位になったことがある。ただし、私の組は出走4名だった。)もちろん、出ても予選落ちというのは分かりきっていたのだが、「試合」というものにも興味があった。
  出ることに決めるとそれまでのトレーニングとはちがった準備が要る。まず、ポージングの練習であるが、これがけっこう難しい。特にラット・スプレッドには難渋した。広がらないのである。最初1ヵ月ぐらいかかってできるようになったのだが、すぐに左が広がらなくなった。右は広がるのに左は広がらずに僧坊筋の方が出てしまう。感覚的にどうしても思い出せず、結局修正するのにさらに2ヵ月ほどかかった。マッスル・コントロールの習得は本人が感覚的にしていくもので、肩甲骨の使い方は最初は難しい。後年、大学で後輩に指導したときもどうしてもスプレッドが広がらないのが1人いて、多いに難儀したものである。フリー・ポーズは予選落ちなので重要ではなく、規定ポーズに2つぐらい足して組み合わせたのをコーチが考えてくれた。もちろん曲の用意も必要ない。顔見世なのだから、主催者が用意した曲が流れている中で参加者が次々とポージングするわけである。
  そして1ヵ月ちょっと前から減量を始めたのだが、これがまた無茶苦茶であった。