2000年4月26日 デビュー戦(2)
田舎の、しかも今から15年も前の話である。トレーニング理論もダイエット法もほとんど情報が無かった。月刊ボディビルディング誌がほぼ唯一の情報源であり、野沢秀雄先生が主として食事に関してアドバイスをする「〜に向けての私のトレーニングと食事法」や「アスリートのための栄養学(確かこんなタイトルだったと記憶している)」などの記事から断片的に知識を積み上げていくのみである。
私もダイエットはしたが、それは要するに3食の量を減らしたというだけだった。単純に減らしたわけではないのだが、かといって栄養学的に考えられたやり方をしたのでもない。蛋白源は卵とめざしと鶏の手羽先(なぜ?)、それに野菜と飯の量は半分である。プロテインはあの××い健体のパワープロテイン1000を1回に20g、1日2回、牛乳で飲んでいた。有酸素運動は嫌いなのでやらない。そんな調子で約1ヵ月続けた。もちろんどう仕上げるかなどというビジョンがあるわけでないので、なぜ1ヵ月かと言われても答えられない。どうなれば仕上がったといえるのかも分からなかった。当時は仕上がりが決定的に順位を左右すると言う状況でもなかったので、コーチもトレーニーも実際のところあまり知識を持っていなかったのだと思う。私も人に訊くでもなく、まったくの我流であった。それでも1ヵ月もダイエットしたのだから目に見えるほどの変化はあった。生まれて初めて、自分の腹筋と対面したのである。
トレーニングは別に変えなかった。もちろん、たったの1ヵ月のダイエットだから使用重量が落ちるなどということもなかったし、第一落ちようがないほど非力なままであった。後に学連の大会に出たときは大会前だというので大会前のトレーニングをしたが、間違いだったと思う。
コンテストは8月の中旬だった。場所は秋田市文化会館、来年ワールドゲームズが開催されるところであるが、大ホールでなく小ホールの方だ。当時は午前中が予選で、予選は非公開で行われた。舞台裏で他の選手がパンプ・アップに励んでいるのをボーっと見ていると
「おい、やろう。」
と言って一緒に背中のパンプをしてくれた選手がいた。自分のパンプの手伝いをさせたというより、ガキが途方に暮れているので声を掛けてくれたのだろう。
やがて皆の後についてステージに出る。どす、どす、どすとわざとらしく足跡を響かせ肩をそびやかして歩く選手の背中の向こうに、眩いスポットライトと暗い客席が見えた。ド近眼、ド乱視の私は細部は見えないのだが、とにかくスポットライトと暗い客席の強烈なコントラストをよく覚えている。そう、ステージについて覚えているのはそれだけだ。
コンテストの結果はもちろん予選落ちで、最年少者賞である。実はもう一人高校3年生が出場したのだが、私の方が4ヵ月若かった。
3時半頃コンテストが終わって外に出ると、当日ゲスト・ポーザーを勤めた六本木昇氏が携帯ラジオを耳につけながら車に乗りこもうとしていた。夏の甲子園準々決勝、地元代表の金足農業(かなあしのうぎょう)vs新潟南の実況中継である。金足農業のマウンドにいたのは私の小中学校の同級生だった。
17歳の夏の日のことである。