2000年5月28日 恐怖とフォースト・レップス

  恐怖はもっとも古い感情であるという。人間が太古の昔初めて獲得した感情が恐怖なのだそうだ。
  恐怖という感情は個体保存のためのシステムの一環として機能している。恐怖を惹起する2大要因は「苦痛を引き起こす現象の学習または予測」と「未知」であろう。このうちトレーニングと関係の深いのは「苦痛を引き起こす現象の学習または予測」である(この場合の「苦痛」は「死」という苦痛を含む)。
  人間は苦痛を忌避するが、これは個体保存のためであることは言うまでもない(ただし、文明が発達した現代では、生活習慣病など逆の結果を招くこともある)。苦痛を忌避するからには、苦痛を引き起こす現象を学習により知っている、あるいはそれを予測することができると、事前にそれを避けるようになる。このとき関係するのが恐怖という感情である。
  一人で補助ラックのないベンチ・プレスを考えるといい。この場合必ず限界に至る前にセットを終了することになる。これは起こりうる苦痛を引き起こす現象(要するに潰れること、あるいは潰れることで起こるであろう事態)を学習しいる、ないしは予測できることにより恐怖を感じるからだ。だが、そうした事態が起きても苦痛を免れ得るという確信を持つことができれば、限界までやることができるのである。そこでパートナーやコーチ、居あわせたトレーニーに補助を頼むことになる。
  ところが、それでも万全ではないときがある。補助がいることがかえって限界までの努力を忌避させることがある。恐怖は苦痛を予測して起こる感情なのだ。限界までやれば苦痛であることにはちがいない。したがって、補助を得ると補助に頼ってトレーニングによる適正な苦痛までも忌避してしまうことが往々にして起こる。補助についてもらうことで粘りが効かなくなるのはこれのためである。場合によっては、補助者に自分が限界までやっているのを見せんがために余力を残して潰れたりする。大学のクラブで合宿を行ったりするとこういうのが頻発する。
  昔は補助についてもらって何セットもフォースト・レップスをするのが普通だったが、無意味なことであったと思う。セット数の多寡の問題を棚上げしても、こういうやり方では限界までトレーニングするのはかえって難しいのではないか。フォースト・レップスは極めて強度の強いトレーニングであり、集中を維持して実施するのは並大抵のことではない。その意味でも安易に多用しない方が良いと思う。