2000年6月3日 学連の人々(1)

  私が早稲田大学に入ったのは1985年(昭和60年)のことである。80年代、つまり、リー・ヘイニー全盛の頃だ。国内では、名前をあげれば限がないが、朝生さん、石井さん、小山さんなどがトップで活躍し、小沼さんが登場してきた頃であり、ミス日本もこの頃から始まった。学連では、84年東大の江口さんが神大の岩間さんを破ってチャンピオンになった。それを私は故郷で月刊ボディビルディング誌で見ていたわけである。
  貧乏タレの私は県の育英会の寮に入った。この寮はいろいろと問題のある寮とされていたが、学生寮としてはマシな方だったと思う。当時1ヵ月1万5千円だったので、安さにおいては破格であった。ただし、寮なので自由に使えるキッチン、炊事場というものは無く、トイレのとなりの手洗い場にガスコンロが一つあるだけである。寮内では直接火を発する器具の使用は禁止で、電気をエネルギー源とするものしか使えなかった。水・電気は使い放題である。このことは後に私のダイエットを規定する前提条件になる。
  当時、大学の部室(正確に言えば練習場と部室)は文学部キャンパスの一番奥というか、裏というか塀を挟んで民家に隣接するところにあった。スロープを登って広場を通り抜け、建物を潜り抜けて奥に入っていく位置にある。だから入学式の時を除いて、新勧活動もスロープを登りきったあたりに長机を置いてやっていた。
  私は入学式に出て(途中で抜け出した。卒業式も5分ほどしか出てない)、入学式を行っていた建物前の広場の一角にあった新勧拠点で入部の申し込みをした。そのときはたまたま次期主将になる生田目さんが一人でいらっしゃったのを覚えている。後でおいおい分かってくるのだが、当時試合で活躍していたのは4年の道田さん(全日本学生5位、関東学生3位)を頂点に、3年の亀山さん(全日本学生4位、4年時)、田尻さん(全日本学生9位、4年時)、土井さん(関東学生新人王、全日本パワー82.5kg超級2位)がいらした。また、髭に学生服の川嶋さんは後に関東学連の理事長になる。近いところのOBでは清水さん、法学部5年生にいまだ在学中の古澤さんなどが現役部員にとって英雄だった。
  この時期の学連はボディビルは基本的に東大の一人天下であり、法政、早稲田、神奈川、筑波などがその後を追っていた。パワーリフティングでは東大と埼玉大、そして新興の国際武道大の争いである。
  私は入部前に既にボディビルのキャリアがあったので、少々特別な扱いを受けた。別に優遇されたわけではないが、トレーニングについては放っておいても大丈夫という扱いだった。もっとも、だからといって特殊なやり方をマスターしていたわけでないし、受験のために4ヵ月のブランクになっていたこと、腰を痛めていた(入試が終わってトレーニングを再開した途端にやってしまった)ことから、結果として他の同期の部員と同じトレーニングをしていた。
  入部して初めての学連の試合は埼玉大学での春の関東学生パワーリフティング大会だった。埼京線で出かけていって、駅から葱坊主の畑などを見ながらてくてくと歩いた。当時は試合ともなれば盛況といって言い状態であり、特に東大、埼玉大の方々は気合の入った試技、応援を繰り広げていらしたのが印象的であった。われわれも、無論気合を入れて臨んでいたのだが、校風というか、部風というか、あるいは当時パワーリフティングでは土井さんしか目立った成績を上げる人がいなかったからか、例によってふざけてるんだが真面目なんだか、応援してるんだか茶化してるんだか分からない。こっちも初めてなので応援の勘所が掴めないうちに2日間が終わってしまった。このときは土井さんが82.5kg超級で優勝し、全日本に進んだ(全日本では準優勝)。
  次の試合は関東学生ボディビル選手権である(当時この大会は春にしかなかった)。このときは東大の江口さんも、神大の岩間さんも出場しなかった。道田さんが3位になられた。ゲストは朝生さんだった。私は故郷で六本木昇さんのポージングを見たことがあったが、それでも朝生さんには度肝を抜かれたのを覚えている。
  試合が終わって会場だった法政大学の門の外でうだうだしていると、白地に派手な柄のアロハに白いスラックス、サングラスをしてサイドバックを片手に持ったデカイ人がいる。4年の先輩が、「おい、あれが岩間だぜ」と教えてくれた。さんさんと初夏の日差しを浴びて佇む岩間さんはあらゆる意味で近寄りがたかった。