2000年8月6日 学連の人々(4)

  4月、新人勧誘の季節になった。1年前と違って勧誘する側に回ったわけだが、クラブとして勧誘活動は決して熱心とは言えなかった。拠点として長机を設けて待っているだけである。これは無理やり入部させても長続きしないからで、一方で入部は随時OK、途中しばらくサボってもきちんと仁義を通しさえすればお咎め無しで復帰が可能であった。実際、前期の間一度も来ないまま夏合宿から復活した者もいたが、「よく戻ってきたなあ」と歓迎されただけだった。
  それでも、入学式当日は式場の記念会堂前の広場に出張って勧誘を行う。この年はたまたまアナウンス研究会(アナ研)の隣に場所をとった。広場をはさんで向かいに芸能山城組がインドネシアの打楽器を持ち込んでえらい勢いである(ちょうど映画「アキラ」の封切りがあったころで、その音楽を担当した彼らは鼻た〜か高だった)。
  アナ研の勧誘活動はその場でイベントを行い、その司会をしてみせるというものだった。アナ研はニュース原稿を読む練習ばかりの会ではありませんよ、というのをアピールしたいのであろう。このときアナ研がイベントとして打ったのは北村克己さんのポージング・ショーだった。少し説明すると、我がクラブでは毎年学園祭で開くコンテストの司会をアナ研に依頼することにしている。彼らは依頼に応えて女性の司会者を派遣して司会をしてくれる。つまり、彼らはボディビルがイベントとしてインパクトのあるものであることを知っているのである。ついでに言えば、我がバーベル・クラブ主催のMr.早稲田ボディビル・コンテストは毎年なかなかの盛況であり、ゲストには日本のトップ・ビルダーを頼むのが通例である。
  北村さんはコンテストにまだ間があることでもあり、オフそのものの身体であったが当時からすさまじいバルクであった。ピンクのパンツにボール紙に銀紙を貼った剣を小道具にして、何度かポージングを披露した。もちろん、我々は新勧活動など完全に放り出してかぶりつきで見ていたのは言うまでもない。挙句の果てにアナ研に乗せられた先輩が隣に並んでポージングをしろと言う。ちょ、ちょっと待って、と、と、隣でって、だ、だ、誰の隣・・・。ところが、亀山先輩や田尻先輩がはじめてしまったので、私も引っ込みがつくなくなってしまった。そのときの写真が残っているが、いや、もう、なんていって良いのか・・・
  もう14年前の話になるなのだが、間近に見た北村さんの背中の厚さを鮮明に覚えている。腰の辺りから後ろに盛り上がるように筋肉がついていた。当時、日本人であのような背中を持っている人はほとんどいなかったと思う。今でも心に焼き付いている。
  その年の夏、クラス別があった次の日か次の次の日、渋谷ユニコーンが入居していたビルの入り口で大河原さんと立ち話した。大河原さんは北村さんがとにかく凄かったとしきりに感心していらした。「筋肉もすごいけど、肌の色も凄い。インド人みたいだったぜ。(当時はカラーは使ってなかった)」とおっしゃったのが印象に残っている。

  北村さんは日本のボディビルダーのフロント・ランナーの一人でした。その方を失ったことは我々にとって多大な損失であります。残念でなりません。
  今はひたすらご冥福をお祈りいたします。