2000年8月24日 学連の人々(5)

  2年になって具体的に新人戦を狙うことになった。当時は春に関東学生選手権、秋(晩秋から初冬)に関東新人戦、東日本学生選手権、全日本学生選手権の順で、一方、関東学生パワーは春は関東ボディより先、秋も新人戦より先という日程だった。
  道田先輩が卒業なさったので関東ボディの出場枠(各大学5人)には入れそうだった。そこで、4月の時点で68kg、デブデブだった私はしぼってみることにした。そのときはあくまで“しぼってみる”という意識だったので、期間は1ヵ月、カロリー計算などはせずに単純に食う量を減らしただけだった。トレーニングの方はジョギングを追加し、当時主流だったコンテスト前のトレーニング、すなわち使用重量は落ちてもいいから多レップス、多セットにするというやり方をした。
  私はこのときまで走ることが大嫌いだった。学校で走らされては、遅いと馬鹿にされ、叱られ、罵られてきたからだ。だが、この時は一念発起して走った。なにしろ走ることには金がかからない。当時、早稲田大学のキャンパスは新宿区の近接した地域に点在していた(人間科学部はまだできてなかった)。文学部キャンパス(クラブの部室・練習場がある)から理工学部に向かい、戸山公園を抜けて戻ってくるコースは1周約2km、我々はこれを「理工1周」と呼んでおり、私は昼休みに毎日3周した。午前中の講義に出た後部室・練習場で腹筋のトレーニングをして、その後走る。走った後は記念会堂に付属のシャワー・ルームで汗を流し、昼食を摂って午後の講義に出る。講義が終わり夕方から部室・練習場かジム(ユニコーン渋谷)でメインのトレーニング。この頃はまだ大学でトレーニングする方が多かった。このパターンは以後のコンテスト前のトレーニングでも同じであった。
  梅雨時なので雨の日が多く、ジョギングパンツに古ぼけたウィンド・ブレーカーを着て走った。走ることが楽しいことだというのを初めて知った。当時はそういうこととは知らなかったが、ランニング・ハイになってどこまででも走っていけそうな気がした。それまで走るのが嫌いだったのは“走らされていた”からだと気づいた。
  そんな調子で1ヵ月過ぎたら、それなりにしぼれた。64kgぐらいだったと思う。タニングにより真っ黒になり(もともと地黒)、頬がややこけたところにそれまでのグチャグチャ・パーマからスポーツ刈にしたものだから、別人のようになってしまった。
「君は?」
と部室で先輩に尋ねられたり、「ウィー・アー・ザ・ワールド」と言われたりした。
  ちなみに結果は14位であった。予選を通過(20人)したのはこのときが初めてであり、仕上がりから考えて上出来といえる結果である。優勝したのは法政の杉山さん、2位が東大の長谷場さん、同期では明治の武石君が10位に入った。秋の大会を重視し、誰もまともに仕上げなかったうちのクラブから入賞者は出なかった。団体は東大、明治、法政の順で、入賞者もこの3大学がすべてさらっている。  
  この経験により、私は新人戦に向けての手応えを掴んだ。10位入賞の武石君は出場権が無い。当面のライバルは亜細亜大学の内藤君になりそうだということは分っていたが、東大や法政、明治はかならず有望な新人が出てくるので油断がならなかった。それに、関東パワーで一人凄いのがいた。
  関東パワーの大会は埼玉大学の体育館で行われていた。関東一円から各大学が勢ぞろいするので応援も含めるとかなりの人数になる。この時は審判の資格も無いし、補助要員にもなっていなかったので、応援に回っていた。あまりパワーに熱心でない私は身内が試技をしないときは手持ち無沙汰である。
  昼休みになって、ふと顔を上げると目の前を凄いのが通り過ぎた。下は黒の学生ズボンで上半身は白いTシャツである。問題なのはその上半身でえらいバルクだ。さらに問題なのは身長が私と同じくらいなことだ(隣に並ばれる)。これ見よがしにロープを手だけで登って見せたりしている。当然にして、「あれは誰だ」ということになって、先輩が聞き出してきた。法政の1年生で「スエ」という名前だそうだ。先輩は、高校のとき何(つまりどんな運動)をしていたか尋ねてみたそうだ。スエ君答えて曰く、
将棋。」
  見た目には腕が目立ったが、むしろ体幹の厚さの方がビルダーとしては武器になりそうだ。当然新人戦にも出てくるだろう。多分、私の隣の隣ぐらいで。だが、私はすぐに彼のことは頭から追い出してしまった。考えたってはじまらない。ネガティブ思考にはまり込んでいったらどうにもならなくなってしまう。コンテストに出るときは、現実はどうであっても、自分が優勝するつもりでやった方がいいいうのが私の持論である。不都合なことには目をつぶるのも一つの戦術だ。