2000年10月8日 学連の人々(6)
新人戦に向けての調整は10週間前から始めた。体重は67kg内外だったと思う(ちなみに身長は163cm)。この時はさすがに計算して食事のメニューを作ったし、それに備えて前期の授業で栄養学を選択していた。授業の教科書として購入した食品成分表(四訂版)は、巻末に栄養学の基礎が載っていて今でも重宝している。
このときは最も落すときで1日1,500kcalとし、まずその時のメニューを確定、後はそれに糖質の量を足すことで摂取カロリーを調整した。そして、第1週は2,500kcal、第2週2,200kcal、第3週1,500kcal、第4週以降2,200kcal、仕上がって以降は2,700kcalと決めてスタートした。トレーニングは例によって大会前のトレーニング(使用重量が落ちることには目をつぶって、ハイ・レップス、めちゃくちゃ多セット)に変更し、カーディオはジョギングで「理工3周」、1日のリズムは朝食、午前の講義、腹筋とジョギング、昼食、午後の講義、トレーニング、夕食であった。分割法は3分割で日曜日がオフである。
最初の2週間は問題なく過ぎた、と少なくとも当時は思っていた。今から思えば既に使用重量が落ちだしており、トレーニングの方法が誤っていたのだが、身体的にも精神的にもさほど負担を感じなかった。第3週、1日1,500kcalに落すと金曜日に至ってジョギングができなくなった。いや、正確に言えばそれでもやったわけだが、歩幅が異常に狭くなり前へ進まなくなった。それでも決めたことだったので土曜日まで引きずるようにしてジョギングを続け、日曜日まで1,500kcalを続けた。
第4週から2,200kcalに戻したが、トレーニングの内容は変えなかった。身体的には胃を壊した。これは、当時ビタミンの摂取タイミングを知らず、空腹時に摂取していたためである。ジョギングは相変わらず引きずるような状況、使用重量は底知れず低落していこうとするのをどうにかこうにか根性で止めようとする。1日のトレーニング時間はジョギングまで含めて5時間を越える日が多かった。学生にしかできない芸当であろう。
この間、身体の状態はもっぱら鏡で見ることで把握していた。つまり、体重計には乗らなかった。体重計は仕上がってから乗ると決めていたが、それは体重を落すのが目的でないという信念に基づいてのことだった。今考えると馬鹿な考えに囚われていたものだと思う。体重の変化を記録しておくべきだった。
仕上がったのは8週目だった。外側広筋にストリエイションが走り、アブドミナルを捻ると横方向にうっすらと筋が見えるようになった。この時点でジョギングを中止、体重計に乗ってみた。58.5kgであった。この日以降摂取カロリーは2,700kcalに増やした。
精神的には夜がつらかった。この頃はポタシウムが流行であったが、なにしろ手に入らない。そこでドライ・フルーツを食べるのだが、ご存知の通りこれらは食べ始めたら止まらない傾向がある。500gの袋入りレーズンなどを買ってきてそれをクッキング・スケールに乗せておき、食べてはスケールのメーターを確認して1日100gずつ食べていた。もちろん、止められずに200gになった夜も何度かある。そして、毎日コンビニでツー・ボール・チョコレートを1個買って帰った。寝る直前にツー・ボール・チョコレートを食べるのである。これは小さい上に中空で8gしかない。大勢に影響がないのである。それでも食べれば正真正銘のチョコレートだ。私は日々その味に感動して眠りに就いたものである。ちなみに、眠りは浅くなりはしなかった(当たり前だ、1日5時間もトレーニングしてんだから)。
2,700kcalに増やして3日目ぐらいになると、劇的に体調が向上した。何かこう、世界が変わったような印象があった。だが、同時に糖質に対する欲求が余計に大きくなって困った。飯は3合炊きの炊飯器で一気に3合炊いて冷凍しておくのだが、炊いたしりから全部喰ってしまいたいという欲望を抑えるのに苦労した。それまではそんなことはなかったのだが、糖質の摂取量を増やしたらそうなったのは不思議だった。
このときはまだカーボ・ローディングは知らなかった。直前にしたことといえば1週間前からの塩抜きと前日の朝からの水抜きである。ポージングは大河原さんに指導していただいた。ただ、曲をつけてのフリー・ポーズの練習は大学でもジムでもしなかったので、事前に何の曲を使うかは知られてなかった。