2000年12月21日 学連の人々(8)

  今年の関東学連の新人戦は13人しか出場しなかったそうだ。寂しい限りだ。私が出ていた頃は120人近く出場していた。中には2チーム(1チーム5人)出場させる大学すらあった。やはりブームだったのだろう(当時はフィットネス・ブームと言われていた)。東日本学生選手権(当時は秋に関東学生選手権は無かった)も100人以上出場していた。
  決勝進出は30人だった。まず最初の4人が入場して舞台の向かって右側に立ち、一人ずつ舞台中央前に作られたポージング台に進んでフリーポーズをする。時間は1分半である。余談であるが、JBBFの地方大会でフリーポーズが1分というのが多いが、短すぎる。そんなことを続けているとフリーポーズの下手糞なビルダーばかりになってしまうのではと不安になる。フリーポーズは長くやるためにはそれなりにポーズ数を増やす必要があり、多数のポーズを構成する中で如何に欠点を見せず、長所を強調するかが問われることになる。時間を短くするとポーズ数が少なくて済むため、そうしたスキルを磨くことがなくなってしまう。
  フリーポーズが終わっても舞台裏に下がるわけでない。元の位置に戻って、一緒に出てきた4人がすべて終わるまで待っていなければならない。そして、4人が終わるとそのまま舞台の左側に移動して、次の4人が出てくる。この4人がまた一人ずつフリーポーズをする間、舞台の上で待っていなければならない。もちろん、その間も「自然体」で立っていなければならないのだ。実に、しんどかった。
  フリーポーズが全部終わると審査結果の集計があり、その間は客席で発表を待つことになる。発表は30位から順に11位まで、そして最後に「決勝に進出した選手で、今呼ばれなかった選手はポーズダウンがありますので舞台裏に集合してください。」となる。いくらなんでもポーズダウンには残るだろう、という自信はあったから30位から15位くらいまでは聞き流したが、以降は一抹の不安がある。12位、11位、呼ばれない。この時点でまず1回目の万歳になる。
  舞台裏に行くと急いで脱いですぐにポーズダウンである。ポーズダウンはもちろん採点の対象外だから好き放題である。私は目が悪いので端っこの方にいて、一人一人コールアウトされていくにつれて真中に詰めていった。最後に残ったのは私と、須江君ともう一人誰かである。「2位」という文字が脳ミソを占領しかけたとき、驚いたことに須江君が3位でコールアウトされた。一瞬、ポカンとしてしまった。続いて2位のゼッケン番号がコールされ、私は両手を突き上げた。(ちなみに2位の古畑君の名前を覚えたのは表彰式になってからだった。)
  そのときの気持ちは、なんと言って言い表していいか分らない。うれしかった?そう、確かにうれしかったのだと思う。でも、あれが「うれしい」という感覚なのだろうか?なんていうか、背中に張り付いていた憑き物が落ちたような、そんな晴れ晴れとした気分だった。私はただ一人ポーズを続けた。そして、アランフェス協奏曲がフェードアウトすると、もう一度両手を突き上げ、そのままその手を下ろして深く一礼し、再び起き直ると公約どおり投げキッスした。
  表彰式を終えて客席に戻ると、岡村先輩が
「いや、俺の目が間違っていた。お前は凄い。」
と言ってくれた。私は内心「あったりめえよ」と思ったが、口には出さなかった。すぐ次の勝負があったからだ。2週間後、まちがいなく再び須江君と同じ舞台に立つことになる。そして、2位の古畑君とも。私の新人王としての真価がすぐに試されるのだ。
  後日、採点表を見せてもらったが、忘れてしまった。圧勝でなかったことだけは確かだ。部分賞も一つもとれなかった。新人戦の審査員は関東学連理事長(4年生)と各大学の4年生の有力選手がやる。ゲスト・ポーザーは前年の新人王である。したがって、私も3年のときゲスト、4年のとき審査員を勤めた。