2002年6月2日 学連の人々(12)

  すっかり、月一更新のサイトになってしまった。減量を始めてからいろいろとひどい目に遭っているので、まあ勘弁してください。
  1987年のシーズンは、法政大学4年杉山さんと中部大学3年牧志選手を軸に展開するものと思われていた。ところが、この年の春の関東学生選手権(当時は関東学生選手権という大会は6月にあった)で、東大4年の外村さんがデビューして杉山さんを破って優勝した。よって秋はこの3人に法政4年の中山さん、2年の須江君、亜細亜大3年内藤君、東北学院大4年桜井さん、明治3年大崎君、武石君、2年の古畑君などが中心選手だと見ていた。西日本の状況については牧志君を除いてまったく分らなかった。当時は東高西低がしばらく続いていたので、あまり関心が無かった。
  11月に入っても右ひざの状態は良くならないし、脚のカットも思うに任せなかった。しまいには、5時間半もトレーニングした挙句に、夜さらに1時間ランニングしたりした。もう体中痺れたような感じで、足も碌に上がらない。故北村さんの表現にある「引きずり走り」という状態である。
  当時は世田谷区北沢にある県育英会の寮に住んでいたので、夜ランニングするとなると東北沢から代沢にかけて走り回ることになる。この辺りは政治家の私邸も多い。馬鹿でかい屋敷が高い壁に囲まれていて、裏口と思しき辺りに守衛詰め所があって警官(ガードマンではない、警視庁の警官)が立ち番している。そこをゾンビのようなのが目だけギラギラに輝かせて走る。胡散臭そうににらまれるが、こっちは眼光こそ怪しく光れども、何も見えていないのと一緒である。ただひたすら脚の痺れがあるのみだ。心肺の存在すら感じないほどだった。
  このときはビスラット・ゴールドのFを使っていた。これにはリノール酸が入っている。今で言うCLAで、大河原さんに教えてもらった。効果があったかどうかは定かではない。何しろ、今から振り返れば根本的にすべてが間違っている。一生懸命筋肉を燃焼していたようなもので、コンテストのときの体重も59.0kg程度だった。
  結局、コンテストの1週間前になっても前年のようには仕上がらなかった。この年はカーボ・ローディングということを知って、それを試すつもりだったので、この時点で仕上がりについては諦めた。他の選手の動向についてはまったく分らなかったし、興味も無かった。時々、新宿のココナッツ・クラブで武石君を見かけたが、相変わらず見事な上腕三頭筋と異様なまでの黒さが印象的だった。コンテスト前には自分の仕上がりは気になるが、ライバルたちのことはほとんど気にならなかった。私にできることと言えば自分のフィジークを仕上げることだけだ。他の選手が努力することを止めたり、遅らせたりすることができるわけではない。だから、根拠もなく自分が優勝すると信じて、戦うのみだ。