2002年10月9日 学連の人々(13)

   風邪ひいて少し熱が出たため、結果として1週間トレーニングを休んだ。体調を崩した後回復するのに時間がかかるようになった。体調を崩すのにも時間がかかるようになったし。1、2週間どうもおかしい、おかしいと思いつづけて、その後でないとはっきりした風邪の症状が出ない。歳を取るのは厭だなあ。

  87年のシーズンは初めてカーボ・ローディングを試した。今もそうだが、ダイエットは毎年流行が違う。86年は卵白とグレープ・フルーツが流行していた。どこのジムのゴミ箱もゆで卵の黄身とグレープ・フルーツの皮であふれ返っていた。今風に言えば、脂肪の忌避とポタシウムの摂取による水の排出であるが、当時そこまでの知識は無かったように思う。グレープ・フルーツについてはポタシウムとソジウムのバランスを取ることによって、痙攣を防ぐということが言われていたが、水分に関連しては言われてなかったように記憶している。
   カーボ・ローディングは86年頃から国内でもやる人が出始めたのだと思う。やり方は今とさして変わらないが、今ほど時間を掛けてなかった。2日カット、2日アップ、ぐらいであった。水については関連して語られてはいなかった。コンテストは日曜日(11月16日と記憶している)だったので、水曜と木曜がカットで金曜、土曜がアップである。トレーニングは木曜日までとしたが、それまでのトレーニングと特に変わるところはなかった。といっても、この当時のプレ・コンテストのトレーニングといえば、カーディオまで含めると1日5時間などというのが当たり前だったから、今とは全然違う。
  水曜からカーボをカットしたら、木曜、金曜と見事に大便が出なかった。なるほど、大便の主成分はカーボなのか、などと妙に感心したりした。カーボ・カットの2日間は朝昼晩と豚もも赤身と鶏のささみ、鶏卵を食べていた。カーボは朝と晩(トレーニングをすべて終了した後)の100gずつだが、その他に大量の生キャベツと生レタスを食べていた。当時はキャベツにカーボがかなり含まれているという知識が無かった。この段階ではもうプロテインは飲まなかったが、ビタミン・ミネラルは摂取していた。
  トレーニングは木曜で終わりにしたが、何となく不安で金曜の夕方ジムの空気を吸いに行った。私は社交的な性格ではなく、閉じ篭り方向の人間なので、ジムにトレーニング以外の用事で行くことはまずあり得ない。入会初日と卒業して故郷へ帰ると挨拶しに行った時を除けば、この時が唯一である。
  金曜、土曜はカーボ・アップで朝は精白米に豚もも赤身、その後は授業に出るのでジャガイモを大量に茹でて持っていくことにした。当時私は寮に住んでいて、コンロは小汚い(正確に言えば大変汚い)便所に隣接した洗面所に1つあるだけだった。たまたま私の部屋はその便所の前(よくゴキブリが出たなあ。それに猫のようなサイズの溝鼠もいた。)だったので、水とジャガイモを入れた鍋をかけて部屋に戻ったのだが、そのまま忘れてしまった。気がついて見に行ったら、水はすっかり蒸発して、ジャガイモにはいい具合に焦げ目がついている。仕方ないので、それをそのまま部屋に持って帰って冷やし、1個ずつラップに包んで授業に出かけた。塩などはもちろん使っていないが、焦げ目が絶妙で美味かった。塩と乳製品は月曜からストップしていた。
  授業を終えて戻ってくると、3合炊きの炊飯器で目一杯飯を炊いた。米を3合炊くと900g強のめしができる。それを味付け無しのささみ(テフロンのパンで焼く)100gで食べる。私はもともと早食いなのだが、900gのめしがあっという間になくなってしまう。ささみがおかずなのか、めしがささみのおかずなのか分らない。その後はレーズンとプルーンだ。これがまた始めたら止まらない。
  そんな調子で土曜も過ごすのだが、土曜は朝から水抜きを始める。私は汗かきで、夜寝ている間にかなりの量の水が抜ける。だから水抜きは苦しかった。水は土曜の朝から、当日パンプ・アップ開始の2時間前まで1滴も飲まなかった。
  結局、このときの体重は59.0kg。前年が58.5kg。ついでに言えば、今年が58.0kgだから、進歩の無いことだなあ。(T_T )ただし、この当時は家庭用のヘルス・メーターでの計測で、そのヘルス・メーターも今なら1,000円ぐらいで売ってるような代物だったから、信憑性は限りなく低い。86年と87年では、仕上がりについては86年の方が良かった。86年には外側広筋にストリエイションを刻むことができたが、87年は右膝の怪我の影響もあってかできなかった。このとき大河原さんからは
「大分よくなったよ。去年はどこを誉めようか困ったもの。今年は良いよ。」
と言ってもらったが、どこを誉めて良いか迷う、という点ではあまり変わってなかったんじゃあ・・・