2003年1月13日 学連の人々(17)

   ああ、忙しい。世間ではリストラに生き残った人たちの間で過労死や過労自殺が増えていると問題になっているらしい。過労死するような状況ではないけれど、忙しい。リストラに生き残ったわけじゃないけれど、忙しい。この3連休も残業のテイクアウトだぜ。77、77、なんでだろう?

  そんなわけで更新をサボっていたら、懐かしい方から突然のお叱りのメールが。で、お返事した通り、今日まで命があったので更新します。でも、これから後の話は、学連選手としての私の晩年の話なので期待を裏切ること請け合いだ。

  冬になると、トレーニングはもっぱらユニコーン渋谷でしていた。クラブには公式練習という制度があって、これは週に2回(1年の時は3回だった)出ないといけないが、それは12月までであった。第一、冬になると雪の舞い散る部室練習場は、風流に過ぎてトレーニングには不都合だった。で、ジムでトレーニングするのだが、どうにものらない。今もそうだが、オフになるとデブになるせいで胃の具合がよろしくない。内臓脂肪がたんまりとあるところへ持ってきて、常に胃に何か入っている。そいつをウェスト・サポート・ベルトで締め上げるものだから、込み上げてきてトレーニングにならない。ベルト穴も最大で4つ移動するのだからどうにもならない。
  しかし、この時はそれ以上に大問題があった。4年生になるのだ。4年生になると卒論を書かねばならない。就職活動をしなければならない。そもそも、入学するとき父に4年間仕送りを続けることはムリかもしれないと言われて、育英会の寮などというところでゴキブリや蚊、溝鼠、守宮などに悩まされているのだ。何としても、就職しなければならない。貧乏人の人生にゆとりなど微塵も無いのだ。卒論と就職活動は止められないから、これをやりながら大会に出れるだろうか?
  そういう状態で、バックナンバー「怪我」にも書いたが、腰をやってしまった。2年の春にぶち壊した右肩も治らない。夏合宿でやった右ひざは治っていたが、他にも手首、右肘とガタがきている個所がある。ああ、もうダメだと思った。この時点で、私の学連選手としての寿命は尽きた。
  何を大げさな、と思う人もいると思う。何しろあの年の就職活動といえば、空前の売り手市場と言われたときである。私も今の会社から5月の連休前に連絡を貰って、ああ、これで決まったとばかり就職活動は止めてしまった。(あの頃は会社訪問の解禁日というのがあって、8月20日だったかな。もちろんその前にもあの手この手の活動をするわけで、7月中には内内定となっていた。)卒論なんてどうってことない、大抵通るだろう。これもその通り。しかし、私の学部にはゼミがない。ゼミがないのは楽だと思うかもしれないが、それはつまり教授(私は助手から昇進したばかりの助教授だった)と1対1で卒論の指導を受けることになる。まさに弟子になるわけだ。私はフランス文学専修だから、原文を読まなければならない。ごまかしなど利くはずもない。ガチンコ勝負なのである。3年生の10月から卒論仮指導というのが始まるが、その第1発目に
「先生、私はバーベルクラブなんです。学生選手権に出るんです。」
とやって、3年のうちはほとんど免除してもらったような始末である。こりゃあ、やっぱりしっかりせんとなあ。
  そんなわけで、学生最後の年は後輩の指導に専念することにした。この時、関東学連を見回せば、法政は須江君や堀之内君がいて、しばらく強そうである。明治には古畑君がいる。強い選手がいるところは、必ず次代の有望選手が育つものである。東大は必ずニュー・パワーを育ててくるだろう。そうなると、うちも油断無く備えておかなければならない。特にニュートリションとポージングである。トレーニングは普段から教えているし、後輩たちも研究、工夫している。しかし、当時ニュートリションの情報はジムの会員になって教えてもらうか、向こうの雑誌を買って読むかしないと、月ボの記事以上の情報は得られなかった。ポージングも同様にジムの会員になるか、コネを頼って教えてもらいに行くかしないとどうにもならなかった。
  やってみて分ったが、これがまた大変な事業であった。