2000年6月8日 ゆとりの時間
日経ビジネスが「学力崩壊」という特集記事を組んでいる。読んで驚いてしまった。
学生(小学生から大学院生まで)の学力が低下しているという話はニュースで知っていた。実際、私も理数はからっきしで人のことが言えるわけでない。だが、小学校で九九を徹底的に暗記させない、というのには驚きを通り越して呆れてしまった。九九が分からないと掛け算も割り算もできない。私の時は小学校2年生で教えられ、クラスのすべてが暗誦できるようになるまで算数の授業は先に進まなかった。暗記できてないとそれより先のことができないからだろう。
家へ帰ってきてニュースを見たら、大学に生活指導専門の教官を置くなどと言っている。高校までの学級担任のような教官だという。大学生は1年跳び入学した者でも在学中に選挙権を得る。大人である。その大人に学級担任だあ?
いったい文部省だの教育関係者だのは教育を何だと思っているのだろう?大学生は大人である。大人でありながら大人として当たり前の社会性を持っていない者が増えていると言うなら、大学を更正施設化することよりも、初等中等教育、さらにはその前の幼児教育の改善が必要である。20歳にもなったようなのに手をかけてやる必要なんかない。やればやるほど大人になる年齢が遅れていくだけだ。
私が小学校に入ったときはまだ「道徳」という授業があった。「道徳」は2年か3年の時に「特活(特別活動)」という名前に変わったが、内容はあまり変わらなかった。小学校高学年か中学校で「ゆとりの時間」が登場した。中学では担任がやってきて「目を瞑れ!そのまま1時間瞑想!」というと帰っていった。十数秒後にはそこここから笑い声が出始め、すぐに大騒ぎになった。すると20分ほどして担任がやってきて、目立って騒いでいるヤツを殴って静かにさせる(当時は教師が生徒を殴るのは当たり前だった)とまた居なくなった。しばらくしたらまた大騒ぎになったのは言うまでもない。これが当時の「ゆとりの時間」実態であり、文部省の通達に現場が対応できなかったのだろう。
現在の教育現場がどうなっているのか私にはわからないが、根本的に学習は「分かる」ということの繰り返しになると思う。やれば分かる、分かれば面白いからもっと分かりたい、この循環に入ることが大切だ。しかし、最初に「分かる」ためにはその条件となる知識を教え込まないといけない。九九はその条件にあたるもののはず。自主性もへったくれもないのである。第一、九九が分からなければ自主的に算数をやろうなんて気にはならないはずだ。なぜなら、問題が一つも解けないからである。
中学校までは義務教育である。つまり、中学校で習う程度のことは日本国民として身につけていなければならない(憲法に即して言えば「身につけさせなければならない」)教養なのだ。それを文部省がどんどん少なくしていくということは、文部省は日本国民の教養は低くて良いと考えているということだ。
もう間に合わないかもしれないが、義務教育はせめて私の頃と同じ(70年代)に戻すべきだ。みんな等しく学力が落ちたからといって社会が平等になるわけでも、国民が幸せになるわけでもあるまい。できるかできないかで教える量や質を決めるのでなく、国民として身につけていてもらわなければならない知識・教養であるのかないのかで決めるべきだ。