2000年6月19日  全部×

  衆院選挙である。よって同時に最高裁判所裁判官の国民審査がある。前から思っていたが、この制度は何かおかしくないか?
  誰を審査すればいいんだ?どんな人が審査の対象になっているか、つまり現状すでに最高裁判所の判事になっているかは大方の国民は知らないはずだ。もちろん、新たに誰かが任官すれば報道されるわけだが、それを覚えている人などほとんどおるまい。その判事がどういう経歴の持ち主で、どういう裁判においてどういう判決を下してきたのか、どういう思想信条を持つ人なのか、等々のことはニュースを見たってまったく分からない。まったく分からないのに○×を付けろと言う。分からないのだから、どちらか付けろと迫られれば×を付けざるを得まい。悪人かもしれないヤツに○を付けるより、善人に×を付ける方が世間にもたらす害は少ないもんな。
  国民主権を司法においても確保する制度であろうが、まったく機能していない。確かアメリカでは判事は選挙で選ぶのだと思ったが、国民に○×を判定せよというのならばその判断材料を十全に提供してしかるべきだ。それをしないのは司法関係者の既得権益を守るためではないかと疑ってしまう。
  これは行政が司法を従属させておくのに都合がいいのだろうが、同時に司法にとっても居心地のいいことだろう。国民を相手にするよりずっと楽なはずだ。司法関係者が本当に司法の独立を望むならば、まずこの制度から改革しなければなるまい。自分は最高裁判所の判事にふさわしい人間だと国民に認められるように努力する必要がある。国民の支持があってこそ行政に対しても厳格で公正な態度が取れるのだ。そのためには自分が何者で、裁判についてどう考えているのか等々を国民の前に明らかにしなければならない。なのに、司法関係者でそういう主張をする人を私は寡聞にして知らない。
  筋を通さず、馴れ合いに甘んじて、自らの既得権益の擁護に汲々としているような者から私は裁かれたくない。よって、私はいつも最高裁判所裁判官国民審判は全部×を付けることにしている。