2000年7月9日  恐怖体験から学んだこと(2)

  私が通っていた頃その小学校は昭和20年代に建てられた木造校舎だった。便所には強烈なアンモニア臭が漂い、人の糞よりねずみの糞の方が多いような有様だった。当然汲み取り式で、便器は白い陶器に青い上薬で畑や鍬、肥桶などの絵が書いてあった。自分で落ちたのか、近所の人が捨てたのか、便壺の糞小便の海の中によく猫の屍骸が浮いていたものである。ただ、校舎内に幽霊が出るという話は聞いたことがなかった。むしろ、近くに沼があったりしたので、外の方に怖い場所が多かったからだろう。
  さて、顔に引きずり込まれそうになった私は恐怖のあまり一言も発することもできないまま、必死に滑走を止めようと手足を砂に踏ん張った。じりじりと迫る黒い水面。間一髪、私は水際で踏みとどまった。視線は顔に釘付けである。顔は赤黒く、ナイフで削りこんだような細長く吊り上った目をしており、黒い眼窩が横目に私を睨んでいる。一瞬、ニ瞬、私はくるりと腹ばいになると、脱兎のごとき勢いで砂地の崖を駆け登った。
  無言のまま崖を登りきり、松林を抜けてグラウンドを望む砂山の上に達したとき、友人たちは既にグラウンドを走りきり校舎に向かう階段を一散に駆け登っているのが見えた。私も息せき切ってグラウンドを走りきり、その辺りで息切れして、それでも走って教室に戻った。怖くて仕方がなく、声を挙げることもできなかった。
  教室に戻ったとき、私を見捨てて逃げた友人たちがどんな顔をして私を迎えたかは覚えていない。だが、恐るべき体験をしたのだから、口から泡を飛ばして教室のみんなに話した。水から顔が現れて俺を引きずり込んだんだ!教室にいた連中は誰一人この話を信用しない。そんなことがあるはずがない。顔だって?それはきっと紙粘土かなんかで作ったお面が浮かんでいたのさ。先生にも話した。鼻で笑われた。しまいに、私と一緒にいて、水に滑り落ちそうになった私を見捨てて逃げた友人たちまでが、あれはお面だったと言い出して私を嘘吐き呼ばわりした。あれがお面だというなら、お前らは何で俺を見捨てて逃げたんだ?怖かったからだろうが。お面なら怖くないだろうが。それなのに、どうして俺だけ嘘吐き呼ばわりされるんだ?
  私は悔しくて泣いた。
  この体験から私は、この世で本当に怖いのは人間の心なのだ、ということを学んだ。6歳(早生まれ)だった。