2003年11月5日 汚した二人

  道路公団総裁更迭の件は実に手際が悪く、見苦しかった。いろいろなことが言われているが、理解に苦しむのは、実に単純な理由で藤井氏を更迭できると言う人がいないことだ。この間の騒動を見ても、氏が道路公団総裁に不適任であることは明らかだ。氏は総裁と言う職務を私しているではないか。
 道路公団は公団であるから当然にして国民の幸福を追求しなければならない。したがって、その総裁は国民に対して責任を負っているのであって、国土交通省も国民の代理として道路公団を監督している。ところが、藤井氏の発言には国民のコの字も感じられない。もしも、それが理由では法律的に解任できないと言うのであれば、その法律の方が違憲立法だということになる。なぜなら、わが憲法にははっきり「国民が主人である」と書かれているからだ。
 「私は何も悪いことはしていない。」なんという責任感の欠落か。総裁とはトップである。組織のトップである者が、悪事をなしてさえいなければ、事業の結果が悪かろうが、道路公団が債務超過であろうが、小学生にも詭弁と分かるような国会答弁をしようが、責任を問われることは無いという認識をしているのだ、この藤井氏は。そのことだけでも更迭の理由として十分と思うがどうか?とてもじゃないが、組織の長が務まる人物ではあるまい。
 ただし、この更迭劇がかくまで見苦しくなったのは、石原大臣の腰が抜けているからだ。初めから更迭するつもりだったのだから、部下の国土交通省の役人に対して「解任するから、覚悟を決めて準備しておけ」と指示しておけば良かった。その上で、「解任するつもりだが、辞表を出したいなら明日の10時まで待ってやる」と言えば良い。そう言っておけば、どっちに転んでもあのような見苦しいザマになることはなかった。首を切るなら、初めから「首切り」の汚名を着る覚悟を決めてかかることだ。それなのに、首のほうで自発的に落ちてくれるのを期待したのだから、腰抜けと言われても仕方あるまい。

 政界風見鶏氏も引退を余儀なくされた。この引退劇は、氏の政治家としての衰えを世間にキョーレツに印象付けたから、影響力も胡散霧消することだろう。
 氏が、まったく周りが見えないほど衰えていたのには、少なからず驚いた。この勝負、初めから氏に勝ち目は無かった。古証文を振りかざしてみたところで、相手は証文を書いた男ではなく、かつ、絶対的な決定権を握っている。名簿に登載しない、と決めることができる男なのだ。世間も氏を「老害」の実例としてよく引用している。ここで相手の持ってきた妥協案を蹴れば、切り捨てられて省みられなくなるのは火を見るよりも明らかだった。実際、内閣顧問とかなんとかいうポストを提示されていたはずだ。風見鶏の異名をとった氏の政治勘が衰えてなければ、引退勧告を受け入れるしかなく、受け入れた上で条件闘争するべきだ、とすぐに分かったはずだと思うが、氏は分からなかった。

 老害といわれる現象が起きるのは、害になっている老人が悪いのではない。老人を引退させることができない若い者が悪いのだ。権力の座にある老人には、甘い汁を吸おうと若い者が群がり集まってくる。集まった若い者が仕事をするから、老人は仕事をしないでもあたかも働いているように振舞えるが、現実に働いているのは大抵若い者だ。一人の老人を一人前に見せるためには、若い者が2人がかり、3人がかりで支えてやら無ければならないことが多い。その分、若い者は他の生産活動ができないから、老人がいつまでも世にはばかると、社会全体の効率が落ちてしまう。そして、このことに老人自身は気が付かないのが普通なのだ。若い者のほうから、「そういうわけだから、アンタは引退してくれ」と言わない限りは。

 今回の二人の晩節汚し劇場は見苦しいやら、物悲しいやら、息苦しいやらで、どうにもたまらない。もっとも、本人たちは自分が晩節にあるなどとは、毛ほども思っていないのだろうが。