シュレヴィスカヤ
朝、街が動き出す前の静けさの中で、イサムは全身の神経を張りつめてカーテンの隙間から外の様子をうかがっている。嫌な感じだった。ここに長くとどまるのが危険なことは承知しているが、イサムは状況の判断に迷っていたし、何より高跳びする金がなかった。今度の取り引きの元手にほとんど手持ちは使い果たしていた。それだけ大きな取り引きだったのだ。
今イサムは自分が住んでいる部屋の斜め向かいの廃ビルから、自分の部屋の様子をうかがっている。向かいの廃ビルでは10年ほど前に朝鮮人と中国人が利権を争い、それぞれ手下や浮浪者を居座らせ小競り合いを繰り返していた。ところが、そのうちに街の勢いが再び海沿いのほうに移っていき双方とも手を引いて、残ったのは荒廃したビルと浮浪者である。
イサムは様子をうかがいながら、昨夜のことを考えていた。昨夜、イサムは旧操車場跡地の列車整備場でアンドレイと落ち合った。午前2時だった。イサムは弟分のダイチに人民元を詰めたトランクを持たせて、30分前に着き遠巻きにして様子をうかがっていた。2時ちょうどに男が3人現れたのを見て、イサムとダイチは整備場に近づいた。アンドレイは2人のうち1人にトランクを持たせて近づいてくると、軽く首を振って整備場に入るように促した。イサムは左手に仕込んだ9ミリの撃発装置をONにして、ダイチに後ろに付いてくるように目顔で指示した。アンドレイの連れの後ろに続いて中に入ろうとして、イサムは2人が東アジア系であることに気付いた。
嫌な予感がした。アンドレイの組織とカレンスキィ・マフィアは敵対関係にあるし、中国人とは接点が無いはずだ。台湾人や華僑、韓国系の組織は米軍の手前ロシア人とは関係を持ちたがらない。通常なら、この時点でアンドレイに銃を向けて逃げに入るところだが、とにかく額が大きい取り引きなので中止するには未練があった。沸きあがる警戒感を抑えながら、イサムは列車整備台の前で、アンドレイたちと向かい合った。そして、イサムが東洋系の2人のことを糾そうとしたとき、アンドレイの胴体が血しぶきと肉片を飛び散らして吹き飛んだ。
イサムは間髪を入れずに整備台の中に飛び降りた。整備台は車両を下から整備するために掘り下げてあり、ぐずぐずしていては雪隠詰めになる。イサムはすぐさま反対側によじ登って、整備台の隙間から様子をうかがった。東アジア人がふらふらと後ずさりするのが見えたが、整備台が邪魔になるので顔と腹から下は見えず、表情はわからない。少し離れたところにダイチの頭のてっぺんが見えた。しゃがんでいるのか、腰が抜けたのか。もう一人の東アジア人は見当たらない。イサムは狙われたのはアンドレイたちだと思った。まだ一人残っている。ダイチには逃げるチャンスがある。イサムは東アジア人の胴体とダイチの頭を見比べて、低い声で言った。
「ダイチ、逃げろ。整備台の穴に飛び込め。ダイチ…」
再び血しぶきを上げて、東アジア人の腹部が消し飛び、胸から上が落ちた。少し回転して落ちたため、イサムは一瞬だがその顔を見た。絶望と諦観。そうか、シュレヴィスカヤだ。イサムはその場に凍りついた。ダイチが悲鳴を上げ始め、イサムは我に帰って叫んだ。
「ダイチ、逃げろ!逃げるんだ!」
そして自分も走り出した。後ろの戸口で、明け方この廃ビルの部屋に入るときに撒き散らしておいたガラスのかけらを踏みしめる音がした。イサムは9ミリ・サブマシンガンを戸口に向け、窓から外れて壁を背にした。足音の主は戸口から一瞬片目を覗かせた。イサムにはダイチであることがすぐにわかったが、サブマシンガンを構えたままで声をかけた。
イサムは座り込んで肩で息しているダイチを見ながら、目まぐるしく思考を巡らしていた。やがて、ダイチが顔を上げて尋ねた。
「ダイチ、俺だ、入ってこい。」
それでもダイチは用心して、何度か片目を覗かせていたが、イサムは窓から入る光の陰に入っているので戸口からはよく見えないはずだ。やがてダイチは拳銃を構えて恐る恐る入ってきた。昨夜持たせてあった人民元を詰めたトランクは持っていない。イサムは陰に入ったままで尋ねた。
「金はどうした?」
ダイチはうつむいたまま答えない。イサムが黙ったままでいると、やがてダイチは震えだした。再びイサムは感情のない声で尋ねた。
「金はどうした?」
「兄貴…」
ダイチは後を続けることができない。震えている。イサムは陰から出てダイチの前に立った。
「ダイチ、俺の目を見ろ。」
ダイチは震えながら顔を上げてイサムと目を合わせた。
「金をどこにやった?」
イサムの声にはまったく抑揚がない。ダイチは感情の消えたイサムの黒い目から目をそらすこともできないまま、震えながらよだれを垂らし始めた。見る見るうちにズボンの前が濡れ、裾から小便が流れていく。
「金をどこにやった?」
「整備場に…そのまま…」
イサムはサブマシンガンを下ろし、窓の脇の壁にもどった。目はダイチから離さない。ダイチは自分が漏らした小便の上にへたり込んだ。
「兄貴、ゆうべのは何なんだろう?」
「レールガンだ。」
「じゃあ、じゃあ、三沢の米軍が…」
「ちがう。MPは抜きうちはやらねぇ。」
それに、レールガンで人間を撃つこともない。
「アンドレイが裏切って手前の組織から処分されたんだろう。」
「じゃあ、ロスケの殺し屋が…あ、兄貴…それじゃぁ、そ、それじゃぁ、シュレヴィスカヤ…。」
ダイチがベソをかき、わめき始めた。イサムはダイチの襟首をつかんで立ちあがらせると、ぐっと顔を寄せて睨み付けた。ダイチが涙と鼻汁と涎を垂れ流しながらも泣き止んだのを見て突き放し、再びカーテンの隙間から外を覗い、言った。
「とにかく、逃げることだ。だが、金が無い。」
それからダイチの方に向き直って、
「お前、人民元いくら持ってる?」
「持ってないよ。」
「ユーロは?」
「…」
「仕方無い。とりあえずヒロキのところへ行こう。山のシェルターに匿ってもらう。」
「大丈夫かな、兄貴。」
イサムは答えなかった。実際、イサムにも分からないのだ。相手が思ってる通りの奴だとすると、ヒロキが二の足を踏む恐れが大きい。
イサムとダイチは廃ビルを出て、北に向かった。この辺りは文京地区で、国立大学の廃墟や来歴の古い高校などがある。二人とも銃を構えて先を急ぐ。もはやなりふり構ってなどいられなかった。大学は道路を挟んで向かいに陸上競技場を持っており、競技場の向こうにあるJR社宅から道路は丸見えで、自在に狙い撃ちできる。二人は道路を横断して大学の廃墟に入り、塀伝いに進む。かつてキャンパスだったところを無事に通りぬけると住宅街に入った。住宅街といってももはや人はほとんどおらず、腐敗と雑草と昆虫の街である。廃屋の庭を通りぬけ、イサムがかつて通った高校の坂道の下を抜けて、再び道路沿いに出る。十字路の先に橋が掛かっていて、その橋のたもとから川原に降りた。橋の下に入りしばらく待っていると、上流からリバー・ホバーがやって来た。ダイチはリバー・ホバーの操縦手に向かって手を振って呼び寄せた。操縦手は石ころを跳ね飛ばしながら川岸に乗り上げ、アイドリングさせたままダイチとイサムを見比べている。ダイチが広東語で話し掛けた。ダイチが操縦手と交渉している間、イサムは顔をしかめながら右手で左手の肘関節をしきりに揉んでいた。やがて、ダイチと操縦手は口論を始めた。折り合いがつかないらしい。操縦手は首を振り、次第に身振りが大きくなっていく。ダイチも唾を飛ばしてまくし立てる。ついに操縦手がダイチを指差して罵声を浴びせ、川にリバー・ホバーを戻そうとした瞬間、イサムの左の掌が火を吹いた。音はほとんどしなかったが、操縦手は胸のすぐ下のあたりに二つ穴をあけられて、ものも言わずにひっくり返った。ダイチはちょっと首をすくめて、それからリバー・ホバーに近づき、操縦手を引き摺り下ろした。イサムは掌の下に開いた穴を見つめながらリバー・ホバーに乗り込んだ。計画通りである。死体を川に放りこんだダイチが戻ってきて、操縦席に座りリバー・ホバーを川に戻すと、フル加速して川を下り始めた。
ダイチはフルスロットルでリバー・ホバーをすっとばした。もともと港の不良上がりのダイチは、リバー・ホバーの操縦では鳴らした腕である。広東語もべらべらだ。リバー・ホバーは本来二人乗りの超小型高速艇で、エアを水面に叩きつけて浮き上がって走るため、水深の浅いところでも高速で走ることができる。その上、エンジンや排気系が低い位置にあり、水飛沫を後ろに跳ね上げるので赤外線追尾があまり効かない。とばして走れば狙撃も不可能である。しかし、とばすのには別の理由もある。川は華僑の縄張りであり、二人はその一員を殺してこのリバー・ホバーを手に入れている。追っ手が掛かるのは時間の問題だ。こんな状況でさらに敵を増やすのは得策でないが、それだけ追い詰められていた。とにかく、一刻も早く河口の港に出て内航高速艇に潜り込むことだ。危険が大きすぎて陸路を取れない二人にとって、今はそれが最善の道である。
河口の港で、イサムとダイチはリバー・ホバーを韓国人に売り、その金で内航高速艇に乗り込んだ。内航高速艇は、公的には敦賀と稚内の間を結んでいるが、その他にも新潟、酒田、秋田、十三湖、小樽など日本海に面した港の間で闇航路がかなりある。イサムたちが乗ったのも闇航路の一つで、主に不法移民や犯罪者を相手に韓国人が運営している。リバー・ホバーはかなりの値で売れたが、銃を持ち込むことを黙認させるためにほとんど使わざるを得なかった。イサムとダイチは座席をすべて取り外した艇の客室の壁に背をつけて立ち、他の乗客に油断無く目を走らせた。この時間の乗客は郡部にある工場や農場に向かう労働者がほとんどである。大方は大陸や半島から入ってきた不法移民で、だんだんとたて込んできた。客室の入り口に立った二人の韓国人がサブ・マシンガンを構えて客室を睨みまわしている。言葉もろくに通じない貧乏人たちがすし詰めになる場所では、暴力によってしか秩序は確保できない。
艇が岸壁を離れて、ゆっくりと湾内を進み始めると、ダイチが小さな声で話し始めた。
「兄貴、江川からどうすんです?」
「ヒロキに連絡を入れてみる。迎えを頼む。」
「あの辺りはロスケがけっこういるんじゃ…」
「わかってる。」
「このままここを売っちまった方がいいんじゃねぇすか?」
「金が無い。」
「…。」
江川港は漁港で、朝鮮人や極東ロシア人の漁船員が多いところだが、近頃は南秋田郡内の工場や農場への通勤路になっていて、相応に活況を呈している。カレンスキィ・マフィアとロシア人の抗争が散発する所だ。
やがて、艇は湾内にいるというのに無茶苦茶なスピードを出し始めた。エンジンが今にも爆発しそうな轟きを上げ、ものすごい振動が床から伝わって話などとてもできない。床と言わず、壁と言わず、天井と言わず不気味な軋み音を発して、ばらばらになりそうだ。やおらイサムが立ち上がって、客室の出口へ向かって歩き始めた。小突かれて、顔色を変える者もいるが、イサムの目を一目見ると皆黙ってうつむいてしまう。出口にいた韓国人の見張りも目をそらして、見てみぬふりをした。ダイチも慌てて後に続く。
激しいローリングやピッチングの中、イサムは甲板を船尾の方に向かって歩いて行った。追って来る船は無い。やがて回れ右して戻ってきた。そして、客室の外壁に背中をもたれて、船尾の方を眺めた。セルビアの戦場で命からがら逃げてきた時のことを思い出していた。ひどい負け戦で、イサムの小隊は散り散りになる有様だった。ユーゴ正規軍の待ち伏せを食ったのだ。残敵掃討の追及をかわし、地元民や野盗の攻撃を逃れ、ひたすらアドリア海を目指した。自分が直接指揮する部下のほとんどを失い、残った者たちも一人、また一人死んでいく。結局、最後に漁船でアドリア海に逃げることができたのはイサムとアンドレイだけだった。傭兵本部に出頭したイサムは作戦が漏れていたという噂を聞いた。背後で糸を引いていたのはEUだった。作戦はEUからロシアを経由してユーゴに報らされた、と。EUは、本心ではコソボのアルバニア人などどうでもいいと思っている。とにかく自分たちの近くで紛争は困るのだから、むしろユーゴ正規軍に治安を維持させる方が手っ取り早い。嫌気の差したイサムは傭兵を辞めた。そして、アンドレイの誘いに乗り、故郷に帰って麻薬商売の道に入ったのだ。そのアンドレイも夕べ真っ二つにされてしまった。
ダイチは客室の外壁に左手をついて身体を支え、イサムの顔を見つめていたが、外壁にもたれかかり、甲板に足を投げ出して座ってうなだれた。今のようなイサムを見たのは初めてだった。イサムにさえ難しいことになっているのだということが、身に迫って心細かった。兄貴にさえどうにもできないなら、俺にどうしろっていうんだ。不良上がりのダイチにとって、ロシアン・マフィアの殺し屋など到底かなう相手ではない。まして、そのロシアの殺し屋たち自身が悪魔のように恐れているシュレヴィスカヤが相手では。
「兄貴、シュレヴィスカヤってどんな奴なんスか。」
「愛と戦いの女神だそうだ。あまりに愛情が大きくて人間の男では受けきれず、愛された男は死んでしまう。」
「そんなヨタ話じゃなくて、ロスケの殺し屋の…」
「アンドレイがそう言っていた。10日も続いたブリザードが晴れた青空の日に、シベリア狼に引かせた銀のそりに乗って現れる。プラチナの甲冑を身に着け金髪をなびかせて走るが、その光り輝く姿を見たものは凍り付いて死ぬ、とな。」
ダイチは黙った。イサムにしては長い台詞だと思ったし、そこにイサムのアンドレイの死に対する思いがあるような気がした。イサムとアンドレイの関係はよく知らないが、自分が舎弟分になる前に既に知り合いであり、長い付き合いであるらしいことは見当がついた。ダイチにとっては二人とも同じ匂いのする男たちだった。本音を言えば、あまり長いこと嗅いでいたくない匂いの。艇は江川漁港の岸壁に乱暴に接岸した。別に壊れれば壊れたでいい、と言わんばかりの操船である。イサムとダイチは客室の外壁に寄りかかったまま、全員が下船するのを待って最後に降りた。見張りの韓国人たちはイサムたちの後から下船してしばらく2人を睨みつけていたが、攻撃してくるようなことはなかった。岸壁から離れつつダイチが振り向くと、ここから乗船する乗客たちに続いて2人の韓国人が乗船するところだった。
江川漁港は朝の雑踏が引いていく時間だった。ここには漁船員や労働者、技術者からチンピラに街娼、浮浪者まで種々雑多な人間が集まってくる。ここで野宿を繰り返す連中も多く、そのうちのたまたま持ち合わせのある連中や、早めに出勤してきた労働者たちが粗末な朝食を摂る。値段からして、材料が何でどんな調理法かなどという野暮なことは聞くべきでないが、それでも食べれる奴は幸せと言うべきだろう。どこからか拾ってきた材料で組み立てたバラックやテントから何とも言えない匂いが立ち込めている。朝の雑踏が引くと、一時奇妙な静けさが訪れる。この時間帯は早朝から店を空けた連中や、そう言う店で食事を済ませた夜行性の奴らが眠り始める時間帯で、人通りも少なくなる。イサムとダイチは通りのとっつきにある、ややまともなバラックの飯屋兼飲み屋に入った。ダイチが店の中をすばやく見まわすと、一番奥のテーブルに突っ伏して動かない女が1人いるだけだった。酔いつぶれたか、あるいはラリって飛んでいるのか。ダイチは入り口に佇んで通りを覗っているイサムに目顔で合図して中に入り、女の隣のテーブルに座った。そっと拳銃を引き抜きテーブルの下で構えている。イサムは尾行も見張りも無いのを確かめると、9mmサブ・マシンガンを構えて店内に入ってきた。奥のテーブルを通りすぎて厨房に入ると、3人の中国人が椅子に腰掛けて飯を食っていた。3人はイサムと9mmを見て、申し合わせたように凍りついた。
「日本語わかるか?」
真中のきれいに七三に撫で付けた中年の男がかすかにうなずいた。手前の少年が落とした塗り箸が床で乾いた音を立てて転がっている。イサムは厨房の奥にある骨董品の黒電話にあごをしゃくって、
「俺は強盗じゃない。電話を借りるだけだ。」
そう言うと、9mmを3人に向けたままゆっくりと厨房の奥へ歩いていく。奥に座っていた坊主頭がそろそろと腰を引き、箸を持ったまま手を不潔なテーブルの下に下ろし始めた。イサムは足を止めて坊主頭にまともに9mmと視線を向けて、
「手を見えるところに出しておけ。」
低いが良く通る声でそういうと、坊主頭の動きが一瞬とまり、次の瞬間小刻みに震え始めた。隣にいた中年の男が坊主頭の肩を叩き、それから両方の掌をイサムに見せ、両隣に目顔で同じ仕草をしろと教えた。二人はぶるぶると震えながら掌をイサムに向けた。イサムは無言で再び歩き始めた。黒電話の受話器を左手で取り、顎をしゃくって3人に向こうを向かせると、受話器を顎の間に挟み、油で汚れきったダイアルを回す。ダイアルはいらつくほどゆっくりしか回らないが、電力供給の不安定なこの辺りでは局からの電気で動くこの手のアナログ電話機が便利である。それにこういう電話機は盗聴が難しい。
イサムは3人と厨房の裏口に注意しながら呼び出し音を聞いていた。およそ、1分も呼び出しが続いた挙句に、出た男は韓国語であった。
「社長はいるか。」
「アナタ、ダレ。」
「俺はイサム。イサムから電話だと社長に言ってくれ。」
電話の向こうで男は乱暴に受話器を放り出してどこかへ行ってしまったようだった。ヒロキが電話に出るまでの間イサムは無言で3人と裏口に注意を向けていた。時々、若い2人が後ろを振り返ったが、イサムと目が合うたびにビクンと椅子の上で飛び跳ねて再び前を向いた。およそ5分も経ったころようやくヒロキが電話に出た。
「イサムか。」
「ああ、俺だ。」
「アンドレイが殺られたってなぁ…」
「よく知ってるな。」
「そういう情報は早いんだ。そうでねえと生き残れねぇ。それで?」
「匿って欲しい。」
「お前さんもヤバいのか。」
「そうらしい。」
「…。」
案の定しばらくは沈黙が続いた。
「馬場目にシェルターがあるだろう。」
「…なんでそんなこと知っている。」
「そう言う情報は早いんだ。そうでねえと生き残れねぇ。」
「くそったれめ。だが場所は少し違う、杉沢だ。」
「すぎさわ?」
「恋地の奥だ。」
「そうか、発電所か。ついに手に入れたわけだ。」
「まあな。」
「もう江川に来てるんだ。これからそっちの事務所に行くぜ。」
「おい、ちょっと待てよ。こっちにも都合ってものがある。」
「借りはきっちり返すもんだ。お前が嫌でも、俺はきっちり返してもらう。それも今、な。」
「借りは返すさ。だが、返してもらうにゃ努力が要るだろう。発電所まで自力で来な。」
「海から山まで歩いて来いって言う気か?」
「別に売ろうってわけじゃない。」
「…。」
「承水路から馬場目川を遡ればいい。」
「…。」
「それでダメなら観念するこったな。」
「…土地勘が無い。」
「船越水道から調整池に出たら一旦右に折れる。」
「右って、東か。」
「そうだ。それから大潟村の地形に沿って大きく北にカーブしていくと、対岸に終末処理場がある。そこが馬場目川の入り口だ。川は7号線と285号線を横切る。285号線を越えて橋を3つくぐった先の、右に木材工場のあるところで川が二股に分かれる。そこを右に入って後は川なりだ。」
「285号線の先3つくぐって工場を右だな。分かった、恩に着る。」
イサムは受話器を置いた。そのタイミングだった。中年の中国人が振り向きざま包丁をイサムに投げつけた。イサムは右足を大きく踏み出して銃口を中国人に向けたまま包丁を避けた。あとの2人は厨房の入り口に向かって駆け出そうとしたが、奥のほうにいた坊主頭の方は中年男とぶつかって腹ばいに転倒した。中年男も態勢を崩してコンロに左手を突いた。イサムは中年男が右手に銀色のものを握っているのを見て発砲した。中年男は胴体に3発食らって流し台に叩きつけられ、起き上がりかけた坊主頭の上に崩れ落ちた。続いて店の方からダイチの38口径の発射音が2発聞こえた。坊主頭は腰が抜けたのか、じたじたともがくばかりで中年男の身体を払いのけることができない。
「兄貴、こいつらは?」
厨房の入り口からダイチが顔を出してイサムを見ている。
「何でもない。電話を使い終わったら殺す気だと思ったんだろう。」
中年の中国人はどう見ても暴力を稼業にしている男ではなかった。捨て身の反撃を試みたというところだろう。
「表はどうだ。」
ダイチはちょっと顔を引っ込めて
「人が集まってきてる。」
イサムは流し台を背にして座り込みベソを掻いている坊主頭に通り過ぎざま2発食らわせ、厨房を後にした。店では女が何事も無かったように、イサムたちが入ってきたときと同じ姿勢で潰れている。
「兄貴、この女どうします。」
「放っておけ。」
イサムは通りに人だかりができ始めているのを見て厨房に引き返した。ダイチも続く。厨房の裏口から外を覗くとすぐ1mほどの崖になっていて、川縁に降りられる。イサムは裏口から出て川縁に降りた。川縁はだんだん狭くなって40mほどで歩けなくなってしまう。イサムとダイチは一気に川縁を駆け抜け、歩けなくなる寸前で再び土手に飛び上がった。土手にはバラックやテントが並んでいる。二人は小走りに土手を進み、店並みが途切れる手前に骨組みだけが残っているテントのところで再び表通りに出た。通りのはるか向こうで人だかりがして騒ぎになっているのを確認し、反対方向に歩く。
「兄貴、奴ら。」
ダイチが小さいが鋭い声で後ろからイサムに声をかけた。前からロシア人が3人走ってくる。3人とも左の胸が膨らんでいる。
「大丈夫だ。」
イサムは振り向かずに答えて、そのまま3人とすれ違った。
「振り返るな、ダイチ。」
ダイチは背筋に感じる冷たいものがいつ痛みに変わるかと、びくびくしながらイサムの後を歩いた。だが、何も起こらなかった。
二人は川沿いに海へ向かって引き返した。船越水道に出るすぐ手前にある海洋センター艇庫に着くと、鍵を撃ち飛ばして中に入った。格納庫は反対側が川に面して開いており、中にリバー・ホバーが1台とモーターボートが3艘繋いであった。入り口でイサムが通りを警戒する間、ダイチはリバー・ホバーの燃料をチェックし、エンジンを試した。エンジンは一発で息を吹き返し、ダイチは陸に向かっていたリバー・ホバーをくるりと川に向けた。イサムが戻ってきてガソリンの入ったポリタンクを2つ積み込み、自分も乗りこんでダイチの肩に左手を置いて言った。
「承水路へ。」
ダイチはゆっくりとリバー・ホバーを進水させ格納庫から出ると、川沿いに大きく右にカーブを切って船越水道に向かう。船越水道に出るとフル加速しながら岸すれすれに再び右にカーブを切った。八竜橋をくぐって防潮水門の狭い門に達する頃にはリバー・ホバーは最高速に達していたが、ダイチにとって水門を全速でくぐることは特に問題はない。しかし、その先は難しかった。水門を通過すると八郎潟調整池に出る。八郎潟調整池はかなり幅が広く面積が大きいため、風が強いとそれなりに波が立つ。リバー・ホバーは波に対してはまったく抵抗力がなく、波にのって飛び上がったり横に倒されたりして転覆することがよくある。細波が連続するとだんだんとピッチングが激しくなって、しまいに一回転して吹っ飛ばされることもある。遊びならばそれを乗りこなすことを楽しむところだが、今は敵に狙われている。ひっくり返ったら命取りだ。ダイチは緩やかにS字を描いて一方向から波を受け続けることを避けつつ、全速力で飛ばした。
「東部承水路から馬場目川に入る。右に曲がって、大潟村の地形沿いだ。」
「兄貴、操縦だけで手一杯ス。その都度言ってくれ。」
それだけ言うのが精一杯だった。それでもダイチはイサムの指示通りに大潟村に沿って東進した。
八郎湖に作られた人工島、大潟村は大穀倉地帯で、多くの不法移民が農業労働者として働いている。入植者のうち経済的に生き残った者たちや、一旦商社の手に渡っていた農地を買い取ったり横領したりした新興地主が大農場を経営している。皮肉なことに中央政府の統制から脱したことで、初めて政府の狙い通りの村になったのだ。この季節は南瓜や西瓜など夏に取れる野菜の収穫が終わり、米の収穫まで間があるので一時休止の状況である。したがって、盗まれる作物もなく水路に対する監視も甘いのだが、ダイチは用心してあまり陸地には近づかないようにした。イサムは水面と陸地に油断なく目を走らせていたが、どちらも人影は見られない。2001年の夏、国債がデフォルトする前までは承水路はバス釣りの名所であった。全国からやってくる愛好家のほか、芸能人を見かけたというデマに躍らされた場違いな連中までひどく賑わっていた。そのブラック・バスも今となっては害魚でしかない。もはや楽しみで釣りをする人間などこの辺りにはほとんどいないのに、食える魚、売れる魚は稚魚のうちにバスが食い尽くしてしまう。
やがて、二人の乗ったリバー・ホバーの前に広々と調整池の水面が広がった。
「大きく左に曲がれ。左の岸に沿って北上する。」
ダイチはイサムの指示に対し返事をするゆとりもないが、指示通りにリバー・ホバーを操っている。やがて、右側の岸が張り出してきて行く手が狭まり、東部承水路の入り口が見えてきた。
「承水路に入ってすぐ右だ。終末処理場がある。」
ダイチは指示にしたがって承水路に入ってすぐ右に大きく旋回し、馬場目川の河口に侵入した。川に入ってしまえばリバー・ホバーは安定する。ダイチは一息つき、両岸に気を配るほどの余裕を取り戻した。しばらく岸に気を凝らしたが、少なくとも襲ってくる気配はない。ダイチは振り返ってイサムに尋ねた。
「それで、どこまで行くんです?」
イサムは答えずにダイチの頭を思いっきり下に押さえつけた。次の瞬間リバー・ホバーは猛スピードで橋の下を通過した。
「油断するな。すぐ次が来る。岸のことは俺に任せておけ。」
ダイチは首をすくめて前を向いた。次の橋はすぐにすっ飛んで迫ってきたが、もっと低い。イサムもダイチも膝に胸をつけ、頭を抱えるようにして避けた。首を上げると今度は岸が飛んでくる。ダイチは歯をきつく噛み締めて右にハンドルを切る。大きな水飛沫を岸に跳ね上げてリバー・ホバーは右に急旋回し、次の橋に突撃する。今度のは鉄橋で高さは十分。だが、くぐった途端にまた岸が迫り、左に急旋回。すると目の前に大きな橋が見えた。7号線にかかる竜馬大橋である。一気に橋の下を通過してダイチが叫んだ。
「兄貴、二股だ!」
「左、でかい方だ!」
イサムは咄嗟に判断して叫んだのだが、正解だった。そこから川は大きく左、右と蛇行し、しばらく直線になった。はるか向こうにまた低い橋が見えてくる。胸を膝につけるようにして橋をクリアすると、眼前にひときわ大きな橋が現れた。285号線にかかる磯の目大橋である。橋をくぐりざま、
「あと3つだ。」
とイサムが言うと、
「あと3つ?」
一瞬ダイチが振り向いて尋ねた。
「3つくぐって右だ。」
ダイチは肯いて前を向いた、そして絶叫した。次の橋が目の前に突進してきたが、その橋は落ちていた。イサムとダイチは間一髪左右にリバー・ホバーから飛び降りた。
ダイチは水の中で中腰になって辺りを見まわした。まだ盛んに黒煙を上げるリバー・ホバーの残骸が流れてくる。水深はせいぜいダイチの股下ぐらいまでしかなく、流れも緩い。38口径はどこかへ飛ばしてしまったようだ。イサムは左手と頭だけを水面に出して辺りを覗っていたが、立ちあがって右手に握った9ミリ・サブマシンガンを水から引き上げた。機関部まで浸水していて、清掃して乾かさないと使い物にならない。口の中で悪態をつきながらストラップに右腕を通し、サブマシンガンを背中に廻した。ジャケットの防水ポケットに仕舞ってあったオートマチックを取り出してみる。無事を確認して左胸のホルスターに納めると、イサムは左岸に向かって歩き始めた。それを見てダイチも後に続く。岸に上がるとイサムはダイチに尋ねた。
「銃は無事か?」
ダイチは無言で首を横に振る。イサムは辺りに目を配りながら忙しく考えを巡らした。ここからヒロキのシェルターまではまだかなりあるはずだった。足が欲しい。しかし、土地勘が無いのでどこにいけば手に入るか分からない。危険を犯しても五城目の街中に入っていくしかないだろう。
「とにかく足だ。足を手に入れよう。」
そういうとイサムは川縁から上がって道路に出て街の見える方に歩き始めた。ダイチも無言で水を滴らせながらついて行く。
イサムは道路を歩きながらも辺りに警戒を怠らなかったが、襲ってくる者は無かった。嫌な感じがした。もし、イサムがシュレヴィスカヤなら、さっきのチャンスを逃しはしない。遮るものの無い川面に放り出され、水深が浅くて潜ることもできない。だが、何も起こらなかった。それどころか、近くに気配も感じない。あるいは始めから狙われてないのか?それとも、どこかで待ち伏せを食らうか?どこからか見られているのか?イサムは軽く首を振って、シュレヴィスカヤの胸中を考えるのをやめた。とにかく今は近くにいない。自分の勘には自信がある。ならば、まず足を見つけることだ。相手を警戒するのは足を見つけてからでいい。
二人は左に285号線を見ながら平行に歩いて、法務局の廃墟の前に出た。そこを左に折れ285号線に入り少し戻って、町役場の駐車場に入っていく。イサムはちょっと振り返ってダイチの顔を見ると、駐車場の奥にある小型の4輪駆動車を指差した。二人の男がそばで立話をしている。ダイチは肯いてイサムを追い越し、右から大回りして近づいていき、一方、イサムは左の役場の入り口に一旦向かった。ダイチは二人の男の視線が自分から外れたのを見計らって中腰になり、4輪駆動車の後ろに回った。車の陰にうずくまり、運転席側の男を覗いながらイサムを待つ。イサムは役場の前まで行って引き返し、4輪駆動車の右斜め前に停まっている古いベンツの運転席に近づいた。イサムがベンツのドアのノブに手をかけた瞬間、ダイチは運転席側にいた男に飛び掛った。左手で男の口をふさぎ、右拳で腎臓に一撃。ところが、男はそのまま背中からダイチに体重を預けため、ダイチはバランスを崩し男と一緒にもつれ合って転倒した。男はダイチを振り払い素早く立ちあがると、
「この野郎!」
罵りざま蹴りをくれようとした。ダイチは転倒したまま膝を抱えるようにして脚を曲げ蹴りを受けようとしたが、男は蹴りを繰り出せなかった。代わりに、全身の関節が抜けたようにダイチの上に崩れ落ちてきた。ダイチは男を突き飛ばし、立ちあがって構えたが、男はもう動けなかった。背中にイサムのナイフが突き立っている。イサムは左足の内側から腰にかけて返り血を浴びてダイチを見ていたが、すぐに振り返って4輪駆動車のドアを試した。鍵はかかっていない、イグニッションに刺さったままだ。中を覗くと後部座席は倒してあり、ライフルが一丁無造作に投げ出されている。座席の間から手を伸ばして取り上げ、弾倉を引き抜いてみると弾は装填されている。ダイチが戻ってきて運転席に座り、イサムにナイフを差し出した。ナイフを引き抜くときに浴びた顔の血を、しきりに肩で拭っている。
イサムがダイチとちょっと目を合わせてナイフを受け取ったとき、すぐ近くでサイレンの音が爆発した。警察署は役場のすぐ後ろにある。サイレンの方を向いた二人は、赤色燈を回転させたパトロールワーゲンが警察署の駐車場を出ようとしているのを見た。ダイチは4輪駆動車のエンジンに火を入れ、間髪入れずにバックさせた。間を置いて後ろに停まっていた小型トラックに激突すると、後ろのハッチドアが衝撃で開くのもかまわずタイヤを鳴らして走り出す。駐車場と歩道を区切っている植え込みを突破して、4輪駆動車は285号線に飛び出した。パトロールワーゲンは大回りしないと285号線に出られず、ダイチはマージンを稼いだ。
「兄貴、あぜ道に…」
「無駄だ。」
パトロールワーゲンは軍用4輪駆動で300馬力、しかも警察車両はこの辺りの地形に合わせてナロー・トレッドに改造してあるはずである。100馬力そこそこの小型4駆ではどう足掻いても勝ち目は無い。ダイチは複雑な交叉点を右にカーブし285号線沿いに闇雲に走る。パトロールワーゲンとの距離は約120m。イサムはライフルを手にシートを倒し、ダッシュボードに両足をかけ、叫んだ。
「止めろ!」
「だって、兄貴!」
「止めろぉ!!」
緩やかな坂の直線を下りきった辺りでダイチがパニック・ブレーキを踏み、イサムはダッシュボードにかけた脚で衝撃を受け止めると、そのまま背もたれの上に伏せてライフルを構えた。パトロールワーゲンが坂の頂上を猛スピードで通過して見る見る近づいてくる。ダイチはただ息を詰めて成り行きを見ているしかない。30mほどに近づいたところで、イサムが発砲した。パトロールワーゲンは左前輪がバーストし左の縁石に激突して跳ね返されてイサムたちの4輪駆動車に向かってくる。が、間一髪、4輪駆動車の後部を掠めて右に飛んでいき、再び縁石に突き当たってひっくり返りながら田に転落した。乗っていた二人の警官は投げ出されて、路上に叩きつけられぴくりとも動かない。ゆっくりと身体の下に血溜りが広がっていく。
「行くぞ。」
イサムは二人の警官を見ながらダイチに言った。まだかなり遠いが、別のサイレンが近づいてくる。近くの工場の工員たちがこわごわ見ている中、再びダイチはタイヤを鳴らして4輪駆動車をスタートさせた。
「よし、あぜ道に入れ。右だ。」
道が緩やかに右折し、後ろが見えなくなるとイサムはダイチに言った。ダイチは目星をつけると急減速し、ひっくり返りそうにロールしながらあぜ道に乗り入れる。まだサイレンの音が聞こえ、刈り取り前の稲穂の間を一散に飛ばし続ける。やがてあぜ道は川にぶつかって行き止まりとなった。ダイチは急停車してイサムを見た。イサムは後ろをじっと見ている。
「兄貴…」
「ちょっと待て。」
はるか後ろの285号線を真っ直ぐ上小阿仁に向かって通りすぎていく2台のパトカーが小さく見えた。2台とも乗用車だ。
「土手に上がれ。橋に着くまで土手を走るしかない。川越は無理だろう。頭を低くしておけ。」
ダイチはちょっと気弱な表情を見せたが、4輪駆動車を土手に乗り上げた。土手の上にはようやく車1台分ほどの舗装がしてあり、ダイチはイサムの指示にしたがって左折して役場のある方向に戻り始めた。すぐ先に小さな橋が見える。
橋に到着するまでのわずか10数秒がひどく長く感じられた。警察はともかく、二人を殺す気なら絶好のチャンスである。ロケット・ランチャーの1発で事は済んでしまう。しかし、何事も起こらず橋に到達し、何事もなく渡り終わった。狭い町道をしばらく走ると、馬場目へ向かう道路に出た。車は1台も走っていない。イサムは辺りを警戒しながらも、少し考えを改め始めていた。いない。近くには、確かにいない。夏が暑かったせいでイナゴが大発生し、そこら中に飛び回っている。ガスクロ・メーターの進歩に化学物質の進歩が追いつかず、農薬を使った食料は開発途上国への援助にも使えないのである。延々と続く黄金の田、清冽な流れを湛える馬場目川、飛び交うイナゴ、イサムはいつの間にか自衛隊時代の暴動鎮圧出動を思い出していた。食い詰め者たちが起こした食料暴動であったが、既に警察の手に負える状況ではなかった。イサムは三尉で、40人ほどの部下を指揮し鎮圧に当たったが、何か状況がおかしかった。烏合の衆であるが、時折妙に統制の取れた行動をすることがある。疑念を抱きながら暴動の起点となっていたJAの倉庫まで追い散らしながら進んでいくと、残存した数十名が倉庫の中に逃げ込んでいく。イサムのいた中隊の隊長は司令部の指示を仰いだ。指示は全員制圧、検挙せよ。イサムの小隊がカバーし、別の小隊が突入した。やがて、イサムの小隊も倉庫に入った。倉庫の中は無人だった。何かおかしい。罠だ。イサムは独断で撤退を決意し倉庫から駆け出した。途端に倉庫は爆発し木っ端微塵となった。地面に叩きつけられた衝撃から回復したイサムは左手に感覚が存在していないことに気づいた。それがイサムの人生の狂い始めだった。
「兄貴、行く先は?」
ダイチの言葉でふと我に返ったイサムは舌打ちした。俺としたことが。近くにいないのは油断させるためか?
「兄貴、シェルターは何処にあるんスか?」
「杉沢の水力発電所だ。」
「すぎさわ?発電所?」
「恋地のスキー場の奥だ。」
「こいぢ?スキー場?」
「だいぶ前につぶれた。とにかくこの道を真っ直ぐのはずだ。川沿いにある。」
ダイチは口をへの字に引き結んで頷いた。地域独占という規制に安住していた電力会社は規制の親玉、中央政府の権威失墜と命運を共にしており、闇発電・闇送電、切り売り、身売り、果ては設備の乗っ取りが横行していた。ヒロキは電力供給が命綱の半導体工場を持っており、大方自分の工場に供給するために水力発電所を乗っ取ったのだろう。そして、そこにシェルターを作ったのだ。
イサムは昨夜からのことを考え始めた。アンドレイが東洋人を連れてきた。アンドレイと東洋人のうち1人がレールガンで真っ二つにされるのを見た。シュレヴィスカヤだと直感した。ダイチを置いて逃げた。なぜ、シュレヴィスカヤだと?理由はない。不意打ちを食らって混乱していた。相手を確認したわけではない。
「あれですか?」
ダイチがフルスピードで廃墟と化したロッジの前を通り過ぎながら尋ねた。
「ああ。」
相手はシュレヴィスカヤではないかもしれない。それどころか、ロシア人でもないかもしれない。アンドレイはなぜ殺られたのか?アンドレイは自分の組織を裏切った、そう思った。本当にそうか?アンドレイは東アジア人と来た。あの東アジア人たちは何だ?アンドレイの指図に従っていたようだ。間違い無い。アンドレイが組織を裏切ったにちがいない。では、撃ってきた奴はやはりロシアン・マフィアのヒット・マンか?それとも、すべて偶然で、別の奴が横取りを図ったのか?横取りだとすれば、相手は目的を達したことになる。もう追ってくることは無い。
イサムはその考えを否定した。近くにはいないが狙っている、確かに狙われているのを感じる。傭兵として幾多の戦場で培った自分の勘にイサムは絶対の自信があった。だが、なぜ攻撃してこない?相手の考えが読めず、嫌な感じだった。もう一度前に戻って考えてみる。ダイチを残して逃げてきた。逃げろと声をかけるのが精一杯だった。アジトに戻ったが、そのまま帰るのは危険と見て、向かいのビルから監視を続けた。朝になったが、何も起こらなかった。ダイチが無事に戻ってきた。いや、金は持ってなかった。ダイチは金はそのまま置いてきたと言った。言葉に偽りは無い。そこから、二人で水上を逃げた。途中でヒロキに連絡した。ヒロキはアンドレイのことを知っていた。渋ったものの、匿うことを承知した。リバー・ホバーで途中まで来たが、ドジを踏んで今は陸路だ。いや、待て。ヒロキはアンドレイのことを知っていた。7時間ほどしか経っていないのに、アンドレイが殺られたと知っていた。そう言う情報は早い、そうでないと生き残れない、と。つまり、ヒロキはロシア人にコネがあるということだ。
イサムは軽く首を振った。どうも気に入らない。気に入らないことばかりだが、もっとも気に入らないのは、自分が一番気に入らないことが掴めないことだった。襲撃が無いのも気に入らない、ヒロキがアンドレイのことを知っていたのも気に入らない。だが、ちがう。もっと気に入らないことがあるのだ。なのにそれが何なのか分からない。
「兄貴!」
ダイチの声でふと我に返ったイサムがダイチの指差した方を見ると、森の中に唐突に銀色の人口建造物が見えた。初秋の日差しをまばゆく反射するそれは水力発電所のタンクだった。何か不吉な姿だった。
「あれだ。」
イサムは考えることを中断して現実に戻った。やがて、水力発電所の全容が見えてきた。タンクはかなり高い位置にあり、パイプと階段が発電施設まで繋がっていた。道はそこから上り坂になり、馬場目川を谷底にタンクの位置と同じぐらいの高さまで登ったあたりのY字路が発電所の入り口になっていた。狭く、急な下り坂である。イサムはY字路を通りすぎて反対側の藪の間の林道に4輪駆動車を止めさせた。降りて辺りを覗う。虫の声、蛙の声、川の音…。ゆっくりと道路に引き返し、しばらく道端に立って警戒する。静かだ。藪の方から染み出した水が道路を横断して流れている。ダイチが近づいてくる。イサムは道路を渡って、Y字路まで引き返した。すると途中に人が降りられる階段が作ってあり、覗きこむとはるか下の川まで繋がっている。木立に覆われ、真中で折り返しになる階段で、最後は橋で対岸の発電所に渡れるようになっている。イサムはダイチに付いて来るように顎で指示して、階段を降り始めた。
木立の中は日の光が当たらず、ひんやりとしている。枝が無数に階段の上にかかっていて、ほとんど手入れをされていないのが分かる。手で枝を払いながらイサムは階段を降りていくが、少しずつ気が張り詰めていく。見られている。そう、見られている。なのに殺気が感じられない。イサムは折り返しの踊り場で立ち止まり、耳を澄ました。もうこの辺りでは川の流れの音がかなり大きい。発電所は稼動しているのかどうか分からないが、人工的な音は何も聞こえない。ふと見上げると、踊り場の2、3歩上で立ち止まっているダイチは青ざめた顔をしてひどく緊張しているように見える。イサムの緊張を感じているのだろう。イサムは少し躊躇した。対岸へ渡れる橋はこれしかないが、渡るときはまた無防備になる。今度は危ない、見られている。しかし、こっちの位置を知られている以上、ここで待っても同じ事だ。武器も食料も水も無い。再び、ダイチの顔を見る。青ざめた顔に汗が浮いている。イサムは階段を降り始めた。とにかく、行くしかない、シェルターへ。
橋の袂でイサムは立ち止まった。振り返ってダイチを手で制して様子を覗う。ここまで降りて、流れの音と思っていた音に発電所のタービンの音が混じっていることが分かった。しかも、タービンの音の方がはるかに大きい。川幅はおよそ10m、橋は30mほどあり、橋の幅は人1人が歩ける程度である。さっきの道路を降りても、結局この橋を渡らなければ発電所には渡れない。道路側から唯一の入り口になっている。川からは3mほどの崖になっていて、道具が無いと登れそうにない。つまり、絶好の待ち伏せポイントである。イサムはしばらく川と発電所とその背後の山を観察した。それから振り返って、今自分たちが降りてきた階段とその周囲の林を観察した。そして、最後にダイチを見て言った。
「行くぞ。」
イサムは橋を渡り始めた。少し間を置いてダイチが続く。ゆっくりと橋を渡るイサムの後ろに従いながら、ダイチはベルトに挟んだオートマチックを硬く握り締めていた。4輪駆動車のグローブボックスから持ってきたものである。とりあえずは銃を取り戻した。もちろん、相手が相手だからそんなものは気休めに過ぎないのだが、とりあえず握っていればイサムに付いていくことはできそうだった。そうでなければ橋の向こうでへたり込んでいただろう。震えて足元もおぼつかず、左手は手すりから離すことができない。イサムが警戒してむしろゆっくりと歩くのでかろうじて付いて行けるという有様である。イサムは一度も振り返らず歩く。ダイチも必死に同じ間隔を保って付いて行く。
イサムは橋を渡り終わった。今度も何も起こらなかったが、イサムの勘はむしろ警戒の度を増していた。いる。敷地の中に入り、ちょっと立ち止まって辺りを警戒する。それからダイチを振り返り、オートマチックを構え直して発電所の建屋の方に向き直った。そして、動けなくなった。発電所を背にして黒衣を纏った背の低い人が立ちふさがっていたからだ。なんの前触れもなく突然目の前に現れた、そんな印象でイサムはふいを突かれてしまった。修道士のようなフードの付いたブラックローブを着ていて、顔はまったく見えない。トランクを持っているが、武器は持っていないようだ。しばらく、イサムはその修道士とにらみ合いになったが、ひどく混乱していた。コイツは何だ?ヒロキの部下じゃなさそうだ。武器も持ってない。今まで自分が考えていた自分の置かれた状況と、目の前のコイツはあまりにも関連がない。どう考えていいか分からない。だからイサムは銃を向けたままで、次の行動には移れずにいた。すると修道士が右手に持っていたトランクを自分の前に置いた。昨夜、人民元を詰めてダイチに持たせていたトランク。イサムは疑問の答えを得た。修道士に銃を向けたまま右足を軸にして身体をひねり、同時に後ろに倒れながら左の義手の9mmをダイチに向けて発砲した。だが、ダイチのオートマチックの方が早かった。45口径弾がイサムの左脇から入って、心臓の辺りで炸裂した。イサムの9mmはダイチの頭上はるかに逸れた。
そうだ、ダイチは事前に打ち合わせもしていない向かいのビルに現れた。あの時、俺はダイチの目を見てダイチに尋ねた。だから、ダイチを信用した。だが、尋ねたのはなぜここが分かったかではなかった。トランクをどうしたかだった。ダイチの言葉にウソはなかった、ウソは。
「馬鹿め…」
イサムはつぶやいた。それは自分のことだったのか、ダイチのことだったのか。つぶやきはもはや口の外には出なかった。
ダイチは倒れたイサムに銃を向けたまま、わなわなと震えていた。見る見る血溜りが広がっていくイサムから目をそらすことができない。激しく震える右手からなんとか銃を離そうとして、左手で右手の指をもぎ取ろうとするがうまく行かない。と、突然発電所のサイレンが響き渡り、ダイチは飛び上がった拍子に銃を川に飛ばしてしまった。両手の震えを止めようとして、腕を交叉させて肘を掴むが震えは止まらない。今にも腰が抜けそうだが、膝を内側に折りかろうじて耐えながらゆっくりと顔を上げていく。修道士はダイチが顔を上げたのを見て、両手を前に差し出してトランクを指し示し、ロシア語で何か言った。ダイチはロシア語が分からないが、修道士がトランクをダイチに返そうとしていることは分かった。
ダイチがこの修道士と会うのは3回目だった。昨夜、修道士は列車整備場で頭を抱えて腰を抜かしているダイチの前に現れた。ダイチの顎を掴んで上を向かせるとダイチを指差し、次いでイサムが逃げた方向を指差し、引き金を引く仕草をした。それから再びダイチを指差した。ダイチがかろうじて頷くと、今度は自分の目の辺りを指差し、もう一度ダイチを指差して引き金を引く仕草をした。お前が奴を殺せ、見張っているぞ。ダイチが頷くと、修道士はくるりと背を向け、腰の後ろに手を組んで去っていった。2回目は明け方前にアジトの近くまで来たとき交叉点で待っていて、向かいのビルのある部屋を指差して歩み去った。いずれの時もダイチは恐怖で口を利くことも、逆らうこともできなかった。今もそうである。ダイチは震えながらトランクに近づきトランクを左手で掴んだが、持ち上げることができずに、たまらずその場にへたり込んだ。修道士は腰をかがめてダイチの顔に顔を近づけロシア語で短く何か言うと、ゆっくりと橋に向かって歩み去った。ダイチはしばらくそのまま震えていたが、やがてごくりと唾を飲み込み、大きく一つ息をついて橋の方を振り返った。もう大丈夫、助かったと思ったからだ。ところが、ダイチの目に橋のたもとに立ってダイチを見ている修道士の姿が飛び込んできた。修道士は手を身体の前で組んで立ち身じろぎもしない。ダイチは再び震え始めた。まだ俺に用があるとすれば…ダイチは慌てて後ろを振り返った。そして、オレンジ色の火線が自分に向かって飛んでくるのを見た。完
注1)この物語はすべてフィクションであり、実在の人物、団体、建造物、地域とは一切関係ありません。
注2)本文中の会話はすべて標準語に翻訳してあります。
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