女   神

 

  私は突然意識を取り戻した。吹雪がやんだのか、雪に埋もれた車内にはまばゆいばかりに光が溢れている。だが、私の意識を呼び戻したのはその光ではない。

  私が兄と会ったのは父の遺体を引き取りに行ったときが初めてだった。それまでは兄がいることすら知らなかった。父は私が6歳の時失踪し、その後まったく音信不通だった。母は父の失踪後ホステスをして私を養ったが、私が学校に行った後に帰ってきて、私が学校から帰ってきたときにはもう出勤しているということが多かった。もっとも私も家に帰るのが嫌でわざと遅く帰っていた。母と顔を合わせると暴力を振るわれることが多かったからである。大人になってから知ったことだが、母は裏で売春を斡旋するような店を渡り歩いていたようだ。
  父が死んだときは母も既に亡く、私も一人前の勤め人として働いていた。職場に突然警察から電話が来て、お前の父親と思われる男が福岡で行き倒れて死んだから確認しに行ってくれと言われた。私はいまさら何をと思ったが、警官から父のポケットに子供の写真があり私の名前とかつて母と住んでいたアパートの住所が書いてあると言われ、放ってもおけず出かけることにした。そして、そこで会ったのが兄であった。父のポケットには写真が2枚あり、1枚には長男、もう1枚には次男と書いてあった。次男の方は私の子供の頃の写真だった。警官に請われて父の死体を検分したが、何の感懐も湧かなかった。父は気まぐれに私をかわいがり、そうかと思えば殴り、またかわいがっては突然怒り出して殴るの繰り返しだった。だから、父が失踪して私は子供心に喜んだことを記憶している。
  兄だという人と帰りに一杯飲んだ。兄は私によく似た顔をしており、話していて変な感じだった。私より
12歳年上で腹違いである。兄の母も既に亡くなっており、兄は離婚して1人で暮らしている。離婚後、勤め先の人たちに誘われて山登りをするようになり、今はそれが唯一の楽しみだと言う。私も未婚で1人暮しであり、初対面でしかも突然兄弟だなどと言われた割には結構馬が合った。そんなわけでその後はちょくちょく行き来するようになっていた。
  兄が遭難したという連絡があったのは2週間ほど前のことだった。職場の仲間たち4人と冬山登山に行った兄は下山予定の時刻になっても山から降りてこなかった。私は麓の警察署に駈けつけ、他の家族の人たちと捜索の結果を待った。しかし、下山予定日の次の日からこの冬一番といわれる寒気が入り、山は猛烈な吹雪になった。この状況では捜索もままならない。2日経ち、3日過ぎて、誰もが口には出さないがもうダメだと思い始めていた。4日目になってようやく捜索隊が1人の遺体とテントを発見した。テントの中には3人の遺体と全身凍傷にかかりながら生き残っていた兄がいた。
  発見されたとき、兄は口を利くこともできない状態だったが意識はあった。ヘリで麓の病院に運ばれてきた兄の顔が死人のようなのは当然として、驚いたのはその異様な目の光だった。死体の目だけが輝いているような感じで、私は兄が正気を失っているのを確信した。しかしその時は、こんな目に会えば無理もないことだとしか思わなかった。麓の病院ではとりあえず凍傷の処置をすることになったが、ひとしきり兄の身体を診た医師は顔を曇らせて私に言った。「手足の凍傷がひどくて、切断することになると思います。」
「両方ですか。あの、手も、足も?」
「左足は下肢の途中から切断するしかない。右足は指が数本で済みそう。手のほうは右がひどくて指がほとんど、左手は小指と薬指、うーん。」
私は言葉が無かった。医師が言うのだからそうするしかないのだろう。私が四の五の言う問題ではない。だが、そんな状態では職場復帰は難しい。
「あの、そうなると仕事はもう…。」
「さあ、それは私には分からんが。しばらくは日常生活もままならないでしょう。リハビリして慣れるまでは。」
「なんともならんのですか。」
医師はむっとして目をそらし、吐き捨てるように言った。
「ならないね。腐っていくだけさ。」
  結局兄は左足の足首から先と右足の指3本、右手の指全部に左手の薬指と小指を失った。その上私が思った通り精神をひどくやられており、その病院では手に負えないことが分かった。やむを得ず私は兄を引き取り、私が住む町の山の中腹にある精神病院に転院させた。転院先の精神病院でも兄の病状は一向に回復しなかった。どういうわけか兄には薬がほとんど効かない。兄はほとんど眠ることがなく、手術の傷が治りきらないのに動き回っては看護士たちに面倒をかけていた。私が行くと兄は指のない両手で私の手を挟んで一生懸命遭難したときの体験を語った。はじめのうちは遭難の有様を語っているのだが、そのうちに現実と幻覚の境界線が怪しくなっていった。医師に誠実に話を聞いてやるようにと言われていた私は、疑問を呈したりせずに兄の話を聞いてやった。

  兄たちの一行には冬山に慣れたベテランもいた。だが、油断があったようだ。どういうわけか全員の時計が止まってしまい、吹雪に閉じ込められて時間の感覚を失ってしまった。5人が身を寄せ合っているしかない中、ただ1人参加していた40代の女性が錯乱し始めた。最初のうちは正気を取り戻させようと話しかけたり、叱りつけたりしていた男たちも、やがて慄然として見守るだけになってしまった。女性は2日目の夜に衰弱して動かなくなった。残った男たちは互いに声を掛け合い眠り込まないように努力した。しかし、寒さと恐怖に体力も気力も失っていき、1人、2人と声が聞こえなくなっていく。最後は兄と若い斎藤さんの2人が残った。だが、3日目の夜もふけた頃になって兄も急速に気力を失い、睡魔にすべてを委ねる誘惑に勝てなくなった。
  兄が意識を取り戻したのは、鼻の穴の奥で感じた冷気によってであった。全身凍傷で痺れきっていた兄はゆっくりと目を開いた。テントの中に明かりが差し込んでいる。兄は救助が来たものと思い、無理に首を曲げてテントの入り口を見た。入り口は開いており、雪に埋もれていない上の方から光が差し込んでいる。兄は久しぶりに見るまばゆい太陽の光に感動した。身体が痺れきっていることも忘れ果て、兄は必死に腹ばいになると入り口ににじり寄った。太陽が見たい、光が欲しい。仲間の死体の上を這い進んだ兄は入り口に到達し、言うことを聞かない身体を必死に操って立ち上がった。救助が来たにしては不自然な状況であったが、思考力の低下した兄は気が付かなかった。兄はどうにか立ち上がると雪に埋もれたテントの入り口から外を見た。凍りついたように晴れ上がった空から、真っ直ぐ自分に向かって太陽の光が差している。兄はしばらく何もかも忘れ果てて太陽を見詰めた。兄の目が潤んだ。助かった、という気持ちさえ浮かばなかった。ようやく下に目線を下ろした兄は、見渡す限りの新雪が太陽の光を反射して輝いているのを見て再び感動した。兄はその美しさにしばし呆然としていたが、ゆっくりと左に目を転じて誰かが雪に埋もれているのを見た。こちらに横顔を見せて、兄から見て右側の雪原を一心に見詰めているその人は斎藤さんであった。兄は斎藤さんの視線を追って目を右に転じていった。かなたの雪原を何か光り輝くものがこちらに向かってくる。兄も斎藤さんと同じように身じろぎもせずにそれを見詰めた。それは銀色に輝く犬橇であった。
  銀色に輝く橇は5頭の大きな犬に曳かれていて、乗っているのは背の高い銀色に輝く女性であった。ブロンドの長い髪をたなびかせながら鞭を振るっている。見る見る近づいてきた橇は斎藤さんの5mほど手前で止まった。腰まで届くブロンドの髪をもつ女性は全身にプラチナの甲冑を身につけていた。橇に乗ったまま斎藤さんを見据えている女性の表情は兄のところからは見えなかった。斎藤さんは微動だにせず女性を見詰めている。兄は橇を曳いているのが犬ではなく狼ではないかと思った。大きな灰色の獣は湯気を上げながら思い思いの方向を向いていたが、それらの目は金色に輝いていて、口を開くと真っ赤な中に白い牙が並んでいた。
  やがて女性がひらりと橇から降りて斎藤さんの方に歩き出した。女性はまったく埋もれることなく新雪の上を歩いていく。兄は女性の顔を見た。どこまでも透き通る白い肌、深い深い青い瞳。女神だ、と兄は思った。女神は斎藤さんの1mほど手前で立ち止まった。それまで身動きもせずに女神を見詰めていた斎藤さんは、突然雪の中から踊り上がり女神に向かって雪の中をもがくようにして進んだ。斎藤さんは女神の足元にたどりつくと、あえぎながら女神を見上げながら再び微動だにしなくなった。軽く口を開いて何かしら訴えるような表情で女神を見上げている。すると、無表情だった女神の顔に哀しみが差すのを兄は見た。女神は右手を差し伸べて斎藤さんの頬に触れた。斎藤さんの顔が何とも言えない喜びの表情に崩れ、そのままの姿勢で右に倒れた。兄は目を見開いたまま倒れている斎藤さんが、喜びとも悲しみともつかぬ表情を浮かべているのを見た。そして、女神が兄の方に近づいてくるのに気付いた。
  兄は妙に澄み渡った心で近づいてくる女神を見ていた。身体はもはやあらゆる感覚を失っており、なにか遠くで起こっている出来事のような気がした。だが、女神がいよいよ目の前に来てその青い瞳を見たとき、兄は言いようのない恐怖を覚えた。女神は凄絶な美しさを放っていた。瞳は完全な無表情を表し、兄はその瞳を見て己の死を予感した。兄は自分の存在が女神の瞳に吸い取られるような感じを受けてたじろいだが、目をそらすことはできなかった。女神はそれ以上近づいては来ず、兄をただ見詰めていた。
  やがて女神は兄から視線をはずすと、くるりと回れ右をして橇に戻っていった。その頃には再び空は曇って風も強くなり、雪がまた降り出していた。女神が橇に戻ると5頭の狼が申し合わせたように兄を睨んで口を大きく開いた。女神が鞭を振い、狼たちは一散に駆け出した。その時になって兄は後悔した。兄が救助されたのはその直後だった。

  ここまで語ると兄は錯乱状態になった。兄は女神の愛を受け入れなかった自分の度胸の無さを呪い、斎藤さんを妬み、一方で再び女神が来ると言って怯えた。やがて私を突き飛ばして、寒い、寒い、どうして外に置くんだ、中に入れてくれ、女神が来る、女神が来る、といってベッドと壁の隙間に飛び降りてうずくまって震えるのだった。

  兄が行方不明になったと連絡があったのは、私が病院から戻ってすぐだった。外は既に暗くなり始めており、私は即座に警察に届けてくれるように頼んだ。再び車で山の中腹の病院についた頃には吹雪になり始めており、既に真っ暗だった。今夜もかなりの寒気が入っている。病院では管理体制の不備を私に詫びたが、それにしてもあの兄がと首をひねっていた。足首から先を切断したばかりで、リハビリもしていない兄は自力で歩くことができなかった。それが病院の外に出たらしいのである。兄のベッドはそのままにされていたが、どう言うわけかびっしょり濡れて床まで水浸しだった。私はその水に手を触れようとして看護士に止められたが、少なくとも透明の液体で、どう見ても水に見えた。間もなく警官が駆けつけ、看護士や私も手に手に懐中電灯を持って病院の周りを捜索した。しかし、兄は見つからなかった。吹雪は勢いを増してくる。11時を回って、一旦捜索を打ち切ることになった。
  私は一度家に戻ることにした。捜索が中断されているときに体力を回復することが必要なことは、前回の経験で骨身に沁みて分かっていた。それに、道すがらひょっとして兄に出くわすかもしれないと思った。猛烈な吹雪で新雪が深く降り積もっていた。これだけさらさらの雪が深く積もるのは珍しいことだった。この状況で帰るのは少し無謀かなとも思ったが、自分の大型RVなら大丈夫だと思った。視界は5mを切り、私はヘッド・ランプとフォッグ・ランプを点け、ゆっくりと車を走らせた。この状況ではもともと時速
20kmがやっとであるが、兄がいるかもしれないという一縷の望みも捨てていなかった。辺りは空中まで白一色で、道路を識別するのも困難になり始めていた。山道では道路の両側を木立が囲んでいるのでその真中を走ればいいが、山からおりて広大な田地に入ると完全に白一色になる。道路脇に竹竿に反射テープを貼ったものが突立てられていて、それと自分の記憶だけが頼りである。
  しまった、と思ったときはもう遅かった。道路からはずれたのか、あるいは吹き溜まりに足を取られたのか、私の大型RVは雪に捕まって動けなくなった。こうなると重い4輪駆動だけにどんどんタイヤが雪を掘ってしまい、亀の子になってしまう。私は無駄と知りつつ携帯電話を試したが、やはりエリア外で通じなかった。吹雪は猛烈に吹き荒れ、私の大型RVでさえ揺らすほどになっていた。私は燃料が十分なのを見て、少々安心した。吹雪の間はこの辺りを車が通ることはまずないだろう。病院までは5km以上あるし、一番近い民家まででも3kmほどあるはずだ。除雪車も町の中心部だけで手一杯になり、この辺りに入ってくるのは夜が明けてからになる。この状況でエンジンが止まったら凍死する恐れさえ出てくるが、とりあえずエンジンを回してヒーターが動いている間はその心配はない。私はため息を吐いてラジオをつけが、電波障害のためか雑音しか聞こえない。仕方なくテープをかけて、座席を倒し目を閉じた。夜が明けたら吹雪も治まるだろう。
  だが、夜が明けても吹雪は一向に治まる気配がなかった。時折、車ごと吹き飛ばされるのではと思うほどの突風が襲い、雪も小止みなく続いた。再び暗くなり始めた頃には、さすがにあせり始めた。雪はほとんど車を埋め始めている。途中で何度か外に出てマフラーの周りから雪をよせたが、今はドアを開ける事もできなくなり、エンジンが止まるのも時間の問題になっていた。私は何度かクラクションを鳴らしたりしてみたが、何の効果も無かった。空腹と乾きと焦燥、それに徐々に恐怖が芽生え始めた。ついにエンジンが止まり、私はバッテリーを節約するためにライトを消した。ヒーターも止め、ある限りの服を着込んで襲ってくるであろう寒気に備えた。エンジンが動いているうちに眠っておかなかったことを後悔しながら、ふと時計を見るとどういうわけか消えていた。慌てて腕時計を見るとやはり止まっている。兄の話が頭をかすめパニックに陥った私は、何とかしてドアを開けて外に出ようとした。ドアはようやく3cmほど開いたが、それ以上はどうしても開かなかった。猛烈な寒気と雪が車内に入り込んでくる。私はあきらめてドアを閉め、今度は狂ったようにクラクションを鳴らした。警笛は雪に吸い取られるように消えていき、私は無力感に打ちひしがれた。
  万策尽きた私は空腹と渇きに苛まれながら睡魔と闘っていた。催眠的な音にいらだって、視界を失うのを覚悟でワイパーを止めたがどうなるものでもなかった。やがて感覚も感情も薄くなり始め、平地で遭難するなんてな、と他人事のように思いながら意識を失っていった。

   私は突然意識を取り戻した。吹雪がやんだのか、雪に埋もれた車内にはまばゆいばかりに光が溢れている。だが、私の意識を呼び戻したのはその光ではない。遥か彼方から吠え声が聞こえたのだ。1、2、3…5頭ぐらいいるようだ。近づいてくる。そうだ、あれは犬だ、犬にちがいない。フロントグラスの上に積もった雪を通して、まばゆい太陽の日差しが差しこんでいる。私は痺れる左手を伸ばしてワイパーを動かした。もうバッテリーも無いのだろう、ワイパーは半分ほど動いて雪の重みで止まってしまった。
  美しい。果てしなく澄み渡った空。降り注ぐ凍てつく光。輝く新雪の平原を走ってくるのは銀の犬橇だ。きれいな人だなあ。だけど、あれは犬じゃない。そうだよ、兄さんの言う通りだ。犬じゃないね、兄さん…。
  ちがう、ちがう、何を言ってるんだ。兄は昨夜から行方不明、…昨夜じゃない、もっと前からだ。俺は何を、何てことを。晴れたんだ、助かるんだぞ。こいつらは犬だ、犬なんだ。この国に狼なんか…そうじゃない、そうじゃないだろうっ!これはみんな幻覚なんだ。しっかりしろ、幻覚なんだ!なんにも無いんだ。女神なんかいない、いない、いるもんかっ!
  いるもんか…

 

 

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注)この物語はすべてフィクションであり、実在の人物、団体、地域とは一切関係ありません。