警  告

  時折、テレビドラマや映画、小説を見て犯罪に走る馬鹿者がいる。犯罪という作業は極めて困難な作業であり、まっとうなビジネスの世界で成功するより難しい作業である。資本を投下し、綿密に計画し、実行後も時効成立まで逃げおおせなければならない。メディアの影響下に犯罪を企図するかのごとき覚悟であるならば、必ずや失敗し最悪の場合死に至る。いや、最悪の場合死に至るというリスクを引き受けてはじめて成立する作業なのだ。
  首尾良く犯罪という作業を成功させたとして、逃げおおせることができるのか。この国は狭い国土の中に一億二千万人以上の人がいて、情報通信が発達し、言論も自由である。
  断言するが、本作を手本に犯罪を実行しても成功しない。成功しない、という確信があるからこそ筆者は実行せずに公開するのだ。
  一方、これを見ている邦銀の関係者がいるならば、肝に銘じていただきたい。邦銀にセキュリティ意識など無いも同然なのだ。それは外部からの犯罪に対してばかりでなく、内部の犯罪に対してもである。この国では、強盗に対して対策を施すのは費用対効果の観点から無駄であるが、情報に対するセキュリティは強化する必要がある。

柔威樅人

 

ピノキオたちの反乱

第1章

  ショッピングモールのエスカレーター脇にある旧式のATMコーナーに、二人組みのスーツ姿の男がやって来た。一人は紺のスーツの若い男で、黒いくたびれた鞄を持っている。もう一人は五十がらみの年配で、眼鏡をかけた茶色のスーツである。二人は密閉型のATMコーナーの中で用を足している男が出て来るのを待った。中にいた男は花粉症なのか、大きな防塵マスクをしてソフト帽を目深にかぶり、大袈裟な塵除け眼鏡をしていた。
  ガチャリと音を立ててドアを開けて出てきた男は、薄汚れたステンカラーの襟を立てて、二人の目を避けるようにうつむき加減に歩み去った。二人は小声で「ありがとうございました」と言って男をやり過ごすと、若い方が鞄からキーを取り出し警報を解除した。キーを一旦鞄に戻すと若い男はドアを押し開けて中に入り、年配の男が続いて一歩踏み入れた。
  その時、さっきATMコーナーから出ていった男が音もなく年配の男の後ろに忍び寄り、右の耳の後ろに棍棒のようなものを叩き付けた。年配の男は無言のまま若い男の背中に倒れ掛かった。不意を衝かれ、狭い室内のことで身のかわしようもなく、その上職業上の習慣から鞄を手放さなかった若い男もバランスを崩してその場に膝を着いた。年配の男を殴り倒した男はすぐさまATMコーナーへ飛び込むと、驚いて膝を突いたまま振り向いた若い男の顔に右足で蹴りを入れた。蹴りは若い男の顎に命中し、ゴキッといやな音がして若い男は支えを外されたように崩れ落ちた。男は素早く鞄を拾い上げると鞄のジッパーを開けた。鞄の中にはサイド・バッグと現金の束が入っていたが、サイド・バッグはATMコーナーの中に捨てた。ジッパーを閉めると辺りを見回し、男は鞄を持ってATMコーナーを出て足早に歩み去った。
  人通りは少なくなかったが、男の行動に気づいた人はいなかった。あるいは、気づいていてもそれがどういうことなのか咄嗟に判断できなかった。男が歩み去ってからしばらくして、数人の通りがかりの人たちが遠巻きにATMコーナーの周りに集まり始めた。無言で顔を見合わせていたが、やがて中年のサラリーマン風の男が近づいて中を覗き込み、大声で警察に通報するように怒鳴り始めた。
  鞄を奪った男はモールの中を足早に歩きながら周囲に油断なく目を配っていた。周囲の音が聞こえないほど心臓の鼓動が鳴り響き、走り出しそうになるのを抑えるのに骨が折れた。男はコインロッカーコーナーに行き、2563番のキーをズボンのポケットから取り出して開けた。中にはナイロン製のバッグが入っており、四角いものが入れてあるらしく四角く膨れていた。男はそれを取り出すと辺りをさりげなく見回し、向かいの便所に入った。便所には大の個室が三つあり男は一番奥に入って鍵を閉めた。奪った鞄をドアの内側にあるフックに掛けナイロン製のバッグのジッパーを開けた。中には郵パックの箱が入っていた。男は箱を取り出し、ナイロン製のバッグを鞄の上からフックに掛けた。箱のふたを外して箱の下の部分と重ね、箱を片手に持ったままステンカラーを脱いで箱に入れる。今度は奪った鞄をフックから外して床に置きジッパーを開け、中から一万円札の大帯封を取り出し箱に入れた。鞄にはほかに一万円札の小束が四つ、千円札の小束が六つ入っていた。男はちょっと躊躇した後、千円札の小束を鞄に残し一万円の小束四つは箱に入れた。続いてソフト帽と塵除け眼鏡、防塵マスクをはずして箱に入れ、さらにナイロン製のバッグから薄手の黒のブルゾンとガムテープを取り出し膝の間に挟んだ。ナイロン製のバッグを小さく丸めて箱に入れ、重ねてあったふたを外して被せた。箱は満杯になっていて男は無理矢理つぶすようにふたを押し込んだが、布製のものが入っているので中身がつぶれてうまくはまった。その上からガムテープで十字型に留めて箱を左手で抱えた。個室のドアの隙間から外を伺って便所に誰もいないことを確認し、男は個室から出て洗面台の上に箱をのせブルゾンに袖を通した。ガムテープをブルゾンの大きなポケットにねじ込み鏡を覗き込んで少し髪を直すと、箱を両手で抱え便所を出て8番出入口に向かって歩き出した。男はゆっくり歩いたが、心臓の鼓動は収まっていなかった。振り返りたくなる衝動を抑えながらわざとゆっくり歩くのは難しかった。
  8番出入口を出ると男は横断歩道を渡り、右手に折れてしばらく行ったところにある郵便局を目指した。わざと一旦前を通り過ぎてショッピングモールから遠い側の入口から入り、小包のカウンターに行った。カウンターの上に箱を乗せ、ブルゾンの内ポケットから宛先のシールを取り出して箱に貼った。無言で係の女性の方に箱を押してやり、一言も口を利かずに料金の支払いを済ませる。男は控えを受け取ると無言のまま入ってきた出口から出て、そのままショッピングモールと反対方向に歩いていった。
  男は交差点を二つ過ぎたところで通りの反対側に渡り、再びショッピングモールの方向に歩き出した。先ほど出てきた8番出入り口は通過し、さらに一つとんで5番出入口を目指した。5番出入口の前にはパトカーが二台止まっていて、さらに何台か向かっているらしくサイレンが響いていた。救急車も止まっている。男はしばらく野次馬といっしょにパトカーを眺めながらサイレンが近づくのを待った。パトカーが二台到着し警官が七人血相変えて5番出入口から駆け込んでいく。男も警官の後を追うように中に入ったが、行き先は駅であった。5番出入口からだと先ほどのATMコーナーを通らずに、連接する駅に行くことができる。
  男は辺りに目を配りながらショッピングモールを通り抜けて駅に向かった。ブルゾンの内ポケットから乗車券と新幹線特急券を取り出し改札に向かった。改札に網が張られているかいないかは賭けだったが、たとえ張られていたとしてもさりげなく通り過ぎるつもりだった。男は周りの人々の歩速に合わせて歩きながら、まっすぐ顔を上げて歩いた。再び自分の鼓動が聞こえ始めたが、うろたえては目立つので極力平静を装うつもりだった。長い駅の廊下を歩いていき、緑の窓口を右手に見て柱の陰にある改札の前に出た。網はまだ張られてない。男は一瞬心臓が止まるのを感じた。膝から力が抜けていきそうになり、熱いものが陰茎の先に少し感じられて、慌てて肛門を引き締め膝に力を入れ直した。
  男はややゆっくりと歩いて改札を抜けた。

  新幹線の自由席で和雄は、窓の外の風景を眺めながら思いに耽っていた。勤めていた地方銀行で和雄がシステム部へ異動の内示を受けたのは、二ヶ月ほど前の二月の初めだった。和雄はいわゆるバブ僧で、一部上場企業がこぞって大量採用に走った時期の入社組である。今になって数は多いが玉石混淆、それも石の方が多いなどと言われていて、世間では三十歳前後のところで選別が始まっている世代である。しかし、和雄のいた地方銀行は保守的を通り越して無為無策に近く、未だに実力主義賃金など及びもつかなかった。だからさほど周囲と格差がつくことはなく、また、生首をぶった切るリストラなどあるはずもなかった。そうはいっても使いものにならない社員というのは必ず存在する。多くの会社でそうしているように、和雄がいた銀行でもそういう社員のうち若い者はシステム部へ、病気持ちや中高年は総務部や事務部へ異動させられた。
  和雄は仕事は一人前以上にこなしたほうである。しかもOJTの名の下にあらゆる係をたらい回しにされたため、支店の業務でできないものは為替の元方ぐらいというほどのスキルを持っていて、まことに使い勝手のいい道具といえた。その和雄がシステム部などという社内動物園に異動することになったのは、偏に口が災いしたのである。八年目にして企画部に転勤になった和雄は、自分の会社の役員が相談役と称する年寄り一人引退させることのできない連中であることを知り、暗澹たる気分になっていた。そこへ都市銀行、大手証券会社の倒産である。イライラが頂点に達していたところに、本部のヒラメと支店のカレイが頭取にゴマを掏って考えた頓珍漢なリストラ人減らし策が始まった。和雄はこらえきれずに、策が的外れなことを公の場で批判してしまった。なにしろ三十年代に人事部にあっていち早く人減らしに着手したことがご自慢の、頭取の肝いりで始まったリストラ策なのだからヒラメもカレイも必死である。まずかったのは若手から中堅にかけて和雄の説を支持する気配が出たことだった。それが行内に広がるのを恐れたのであろう、年が明けた二月の定期異動で動物園送致である。
  阿呆らしくなった和雄は、システム部に出頭するなり“辞表”を出した。本来和雄のいた銀行では、辞めるときには退職願という様式の書類を出す。しかし、和雄はそれを最後まで拒否した。なぜ辞めることを願い出なければならないのか。だから、和雄が出した“辞表”の表題は「雇用契約破棄通告」である。
  新幹線高架の壁の向こうに見える杉林を眺めながら、そんなだから辞めざるを得なくなったのかな、と和雄は思った。入社した当初からなじめないものを強く感じていた。もっとも和雄の場合物心ついてからずっと世の中に対してというか、生きること自体に違和感を感じ続けていた。疎外されている、という感じを持ち始めたのは十五歳ぐらいからだ。その一年後ぐらいには、神経がおかしくなって視覚に色が感じられなくなったこともあった。それは三日ほどで治ったが、未だにその苦痛は忘れることができない。和雄は銀行に勤めている間、ずっとその再発を懼れていた。いつかまたあんな苦しいことが起きるに違いない、その前に死にたいと思い続けていた。ところが、銀行を辞めた途端その恐怖は胡散霧消してしまった。そういうことはもう起こらないと確信したわけではない。そうなる前に死ぬだろうと確信したからだ。
  銀行を辞めて和雄自身はせいせいしたが、収まりのつかなかったのは両親である。相変わらず母は和雄を馬鹿呼ばわりして泣くわめくの連続である。気が弱くてなんでも妻の言いなりの父は難しい顔をして黙っているだけだ。しまいに和雄はそんなザマを見ているのが苦しくなって、母親の頬を張った。驚きから回復した母が何か言う前にもう一度張った。そして、今度は自分が怒鳴り始めた。和雄の母は何でも自分だけが正しく、他の者は皆間違っており馬鹿であるという女だった。小さいときから和雄の前で父を馬鹿呼ばわりし、弟の嫁をこき下ろし、近所の悪口を言ってきたような母である。だから、母がまた何か反論しようとすると、和雄は先回りして頬を張って怒鳴り続けた。母が反論する気力も失せるまで怒鳴り、張り飛ばすと和雄は家を出た。家を出て車を国道に乗り入れたとき、和雄は初めて生きることへの違和感を感じなくなっていることに気付いた。和雄は閉鎖されたパチンコ屋の駐車場に車を止めてぼろぼろと涙をこぼし、そして運転席に座ったまま天を仰いで絶叫した。

  和雄は新幹線の座席で目を伏せた。しばらく目をつぶってうなだれていたが、やがて顔を上げて口をぐいとへの字に結んだ。とにかく、今日和雄は再就職を果たした。契約金千四百万円。上手くいけば時効成立まで、下手を打てば捕まるか殺されるかまでの契約である。

つづく

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注)この物語はすべてフィクションであり、実在の人物、団体、建造物、地域とは一切関係ありません。